2018年12月20日木曜日

圧倒的な光に屈する悪魔の物語、として~東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会

アッリーゴ・ボーイトが生涯に完成させたオペラはこれだけ、という「メフィストーフェレ」は自分の過去の音盤に関する記憶を手繰ってもバーンスタインのプロローグ、ムーティの全曲録音くらいしか出てこない。だからレアな作品だ、と言い切ってしまうなら、私はバッティストーニから厳しく反論されることになる。詳しくは東京フィルハーモニー交響楽団の特設ページを見ていただくとして、簡単に言ってしまえばこのオペラはそこまで演奏頻度が低いわけではない、のだ。確かにレコーディングだってちゃんと調べれば少ないとも言えない(パヴァロッティ、ドミンゴのファウストがあるのは、ある意味「彼らなら、ある時期何でも録音されていた」ということかとは思う)。またこの作品は映像映えするからなのか、最近の舞台の映像ソフトだってあるし、この演奏会と同時期にはMETが上演していたりもした。なるほど、この作品はそこまでレアではない。…もっともそれは「日本の外では」という話。我々日本のクラシック音楽好きは、昨今こんなにマーラーの第八番を聴くことができるのに、他の作曲家による「ファウスト」による作品群になかなか触れられない。グノーやボーイトが上演されないのはオペラの作品選択は多すぎるほど多い事柄が関わるものだから一概に良し悪しでは語れないが、そうしたある種の偏重は認識しておこう。
そういう風潮や傾向に挑む勇気が、そして自身が読み込んだ作品の力を信じる強い意志が、アンドレア・バッティストーニにはある(もちろん、その強い意志を受け入れる東京フィルハーモニー交響楽団にも、だ)。有名作を上演するのと並行してマスカーニの「イリス(あやめ)」を演奏会形式ながら上演した彼の、そうした趣向・指向については先日の定期のときにコンサート・レパートリーでも同様、と少し書いたので割愛。ここでも少しだけ書いておくなら、近現代の作品に強いマエストロが耳慣れない曲を取り入れることでコンサートのプログラムを新鮮なものに変化させるように、バッティストーニはイタリアの知られざる作品を取り上げることでよく知られた作品の意外な立ち位置を知らせたり、同時代の作品の近さ遠さを音で示してくれている、と考えている。今回の「メフィストーフェレ」にしても、昨年の「オテロ」、今年の「アイーダ」との歴史的・人間関係的位置関係を思わずにはいられないし、…これ以上は後にしよう、いつまでも本題に入れない。”私はどう聴いたか、この作品をどう体験したか”こそが拙文の本題である。なお、ボーイトの「メフィストーフェレ」、そしてその原作ゲーテの「ファウスト」についても書くとこの文がいつまでも終わらないことになるので過去記事を参照いただくようお願いしたい。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第913回オーチャード定期演奏会

2018年11月18日(日)15:00開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

指揮:アンドレア・バッティストーニ

メフィストーフェレ (バス):マルコ・スポッティ
ファウスト (テノール):アントネッロ・パロンビ
マルゲリータ/エレーナ (ソプラノ):マリア・テレ-ザ・レーヴァ
マルタ/パンターリス(メゾ・ソプラノ):清水華澄
ヴァグネル/ネレーオ(テノール):与儀 巧
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団  他

ボーイト:歌劇『メフィストーフェレ』(演奏会形式)

最初に総論を手短かに書く。すでにかなり長いけれど。
ゲーテが伝説から汲み取ったファウスト伝説のエッセンスをアッリーゴ・ボーイトがオペラという制約の中でギリギリまで汲み取って作られたオペラが「メフィストーフェレ」、その作品を”原作の抜粋”ではなく”原作から生まれた、凝縮され構成されたひとつの体験”として読み解いたアンドレア・バッティストーニと東京フィル、キャスト各位と演出補のチームが提示してくれた舞台、であった。三時間強の長丁場ながら、弛みや成り行き任せの瞬間はなく一気呵成に終幕までたどり着き、私たち聴き手を圧倒してくれた。こう書くと若さと勢いに任せた演奏だったように見えてしまうがそうではない。作品の多様な性格を表情で、サウンドで示しつつあれよあれよと展開していくドラマ運びに、迷いがなかったことを言いたいのだ。
プロローグとエピローグで作品の外枠を固めたボーイトの創意ゆえ、このオペラでは「ファウスト」が持つ“神と悪魔の遊戯的闘争の物語”としての側面が強められている。エピローグでの福音を改心の支えとするファウストなど、原作とは異なるアプローチに戸惑われる方ももちろんいただろうと思う。しかしこれはあくまでもゲーテの「ファウスト」ではなくボーイトの「メフィストーフェレ」、死を受け入れるその時まで励み努めた一人の人間の物語ではなく、神に挑んだ悪魔の物語なのだ。私はこの演奏を聴いて、そう理解した。ファウストはあくまでも神と悪魔に操られる存在であるのだから、悪魔が敗北した後の「救済されるファウスト」の物語はここには必要がない、ボーイトはそう判断したから、あの有名な「神秘の合唱」は書かれなかった。またひとつ、疑問が解けた気分である。

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日曜の昼に善男善女が集ったオーチャードホールの客席につけば、ステージはピット上にまで大きく張り出して、前方にはスペースがある。サイズとしてはそれほど大き過ぎもしないオーケストラの後ろに合唱団の席、その上にはスクリーンが用意されている。編成もそこまで大きいわけではない、といってもそれは14型程度の弦セクションの話(16型だったかもしれない。最近年のせいだが目が悪くなって、このあたりいささか自信がない)。大量の管打楽器、少年少女たちも加わる合唱は作曲された時代を考えればかなりの大編成のもの。バンダは舞台裏でもステージでも演奏するため、合唱の横に席がある、と見て取れる。
かつてのオペラ・コンチェルタンテを思い出すまでもなく、東京フィルがこのホールでオペラを演奏するためならば演出がつきものだ。定期演奏会でありながら、そのドラマを存分に表現しようという挑戦的な試みを長年続けていた東京フィルならではの、音楽を、その物語をより客席に伝わりやすくするための最小限ながら考えられた演出だった。パンフレットにある菊池裕美子氏の役職が”演出コーディネーター”とされているのは、バッティストーニとの共同作業だったから、なのだろう(「イリス」では演出もバッティストーニだったことを想起しよう)。

とまず舞台の話を始めたのは、最小限の照明だけが灯されたステージで始まった演奏、この作品ではもっとも有名なプロローグが始まってすぐ稲光を思わせる光の演出が非常に印象的だったからだ。この一つの演出が、この作品は題名が示すとおりの悪魔の物語であるのと同時に、神の物語でもあることが示されたと感じたからだ。ここから「魔笛」の三人の童子を想起した私は、”もしかしてバッティストーニの中ではロッシーニ&シューベルトによるプログラムと「メフィストーフェレ」とはつながっていたのかもしれない”などとも考える。考え過ぎ、気のせいかもしれないけれど。
舞台が進む中で照明の演出のみならず舞台上方のスクリーンに映される映像、会場各所で活躍した助演を交えてこのオペラをより伝わるものにしようと試みた姿勢を、私は積極的に評価したいと思う。「ファウスト」を読んでいたとしても、私たちはみなこの作品の”初心者”だったのだから。なお、助演の古賀豊は鬼火として客席に現れたりマルグレーテの幻影を殺したりと、文字にするといささか物騒な活躍をして(笑)この演奏会をオペラにする、文字通りの一助となっていた。

音楽の話に移る。バッティストーニと東京フィルがこの日聴かせた演奏は、バッティストーニらしい張りのある、よく伸びるサウンドでボーイトの唯一の完成されたオペラの魅力を存分に伝えてくれた。バッティストーニが導けば鳴らしやすいとは言い難いオーチャードホールでも東京フィルは見事に輝いた。あえて難を言うならば、特にプロローグとエピローグがあまりに輝かしかったものだから、悪魔という闇の存在が少々消されてしまった感がなくはない、ということだろうか(笑)。
もっとも。私はこの作品の題が「ファウスト」ではない理由を、ボーイトがスカピリアトゥーラとして挑戦的だった自分の投影としているからではないかと考えるのだが、こうして神のご威光によって敗北するドラマとして「メフィストーフェレ」を体験することで、どうしても後年反抗の対象の一人だったはずのジュゼッペ・ヴェルディと和解・協業したスカピリアトゥーラたちのことを思ってしまう。「アイーダ」でのギスランツォーニ、「シモン・ボッカネグラ」「オテロ」そして「ファルスタッフ」でのボーイト。“父親”としてのヴェルディともども、なにか考えさせられてしまう縁がここに現れた、というのは後付にすぎるのだけれど。

オペラ指揮者・バッティストーニの技はこの日も冴えに冴えた。改訂されたとはいえ短いとは言えないこのオペラが一気呵成に上演されたかのように感じられたのは枠組みを明示した作品の構成の妙もあるだろうけれど、歌手とのやり取りでちょっとした間の悪さが生じない彼の技が大きく貢献していた。まだ発表されていない彼の次のオペラは果たして何か、期待せずにはいられない。
彼の指揮のもとの東京フィルハーモニー交響楽団の充実ぶりは、皆様ご存知のとおりである。このオペラ二日目ということもあっただろうけれど、集中力高く破綻なく、確信に満ちた音で彼らのマエストロに応えきってみせた。

キャストでは、題名役のマルコ・スポッティはこの日体調不良だったとも聞いたが、バスを主役とした数少ない作品での晴れ舞台を見事にこなした。
急な代役にもかかわらず熱唱を聴かせたアントネッロ・パロンビ(ジャンルーカ・テッラノーヴァから変更)のファウストは、”このオペラはファウストの物語ではない”という私の読みを裏切るほどの存在感を示した。ヴェリズモ・オペラにも近いかと思わせる熱い歌唱には、この作品がドイツ由来であることを忘れさせるほどの力があった。
マリア・テレーザ・レーヴァは初来日でのマルゲリータ/エレーナでの出演だったが、特に前者の第三幕のアリアで聴かせた。トラウマ的経験を経た彼女の不安定なあり方を示しながら、キャラクターの芯の強さを同時に表現した歌唱はお見事、19世紀の「ファウスト」が第一部を中心に受容されたことも理解できるほど、だった。
新国立劇場合唱団はプロローグ、エピローグの輝かしさも見事だったが、第一幕の復活祭の群衆の場面でさすがの存在感を示した。世田谷ジュニア合唱団は音楽の流れを任される場面でも臆すことなくよく歌い、公演の成功に大きく寄与した。

最後に。本文の繰り返しになるけれど、作品については以前の記事(その一 その二)を参照いただくようお願いしたい。ゲーテの「ファウスト」について何度も書くなんて底なしの度胸、私にはないもので。本当にね。
…とは思ったが、実演に触れることで喚起される思考というのは間違いなくあるものだから、ボーイトの作品、オペラについてということで最後に記しておく。

先日の記事でこの作品が想起させるものとして「ドン・ジョヴァンニ」「タンホイザー」の名を挙げたが、実演を聴いてさらにいくつかの作品との関係性が気になった。もしかすると無理筋かもしれないが、先行作として意識された可能性のあるもの、純然たるシンクロニシティ、後世への影響などなどを想像させる作品名をあげたい。
プロローグあとの第一幕の復活祭と、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の終幕の類似は時代的な近さ、作曲家たちの関係性を嫌でも考えてしまうものだ。また、第二幕と「ラ・ボエーム」第二幕はダブルデートというか、二組のカップルの場というか、場面の提示における手付きの水準で近さを感じた。そして古代の美女たちと関わる第四幕は「ホフマン物語」を思わせるものだった。
このあたりのことも、きっと世界のどこかには論文があるのだろうな、と思いつつ探せていない私であります。たぶん、捜索の果てに見つかる論文はイタリア語で書かれているんじゃあないかなあ…

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この日は、16日にすでに行われたサントリーホールでの公演の好評を知った上で渋谷に向かったのだが、「渋谷は怖いところだ」と直前にニュースで見たので(おい)、護身用に悪魔のコスチュームでもドンキで買おうかと思ったら(嘘)、渋谷のドンキは自分が知っている場所から少し離れたところに移転していて驚いた。もはや浦島太郎である。これからしばらくこのシリーズ続きます(そうなんだ)。

さてこの長い文に最後までお付き合いいただきました皆さまに、そして私にも朗報です。来る12月21日(金)に、NHK FMの番組「オペラ・ファンタスティカ」にて、私が聴いたオーチャードホールの公演の2日前の演奏会、サントリーホール公演が放送されます。若きマエストロは演奏会場によって演奏の仕方を変えるのかどうか、ちょっと気になるところなので確認しなくてはと思う次第。放送は14時からですので、皆さま何らかの手を打ってぜひお聴きくださいませ。

では今日はこのへんでよかろうかい(特に意図はなし←と書くことで何かがにじむスタイル)。

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