こんにちは。千葉です。
前振り抜きで記事の紹介をまず。
◆2016年はゲーテの、「ファウスト」の年?
めちゃくちゃかんたんに書いてしまうならば「今年はほんとうに変わった年で、ゲーテによる音楽の大作がたくさん演奏されてるんですよ」という内容です。そしてそれは、この後に感想を書く公演の前フリでもありました。
が、コンサートの話の前に。この記事には本当に時間がかかったので(千葉ごときがゲーテについてまともに向き合ってしまったのが運の尽き、ですよ)、当初予定していたエンディングは公開版とは別のものなんです。その別バージョンふたつはこんな感じ。文体はもちろん、記事にしていたら違うものになったでしょう、ということで。
1)ここまで来たらどうか、どこかリストのファウスト交響曲を演奏してくれないか。ファウストとグレートヒェン、そしてメフィストフェレスの三人を軸にあの大作を音楽化した作品として類似しているし、同時代の相互に影響し合う仲の人々のアプローチだし。特にもメフィストフェレスの描写において明らかにベルリオーズの影響があるでしょ?そういう点から見て、もうちょっとベルリオーズは褒められてもいいと思うんだよね、”同時代、後世への影響”という観点からもう少しまともに評価してもいいと思うんっす。(とはいえ、この扱いの悪さは作曲家本人が自伝、回顧録で落ちぶれたエピソードを言い過ぎた弊害かもしれない)
2)今年は上演されないけれど、グノーの「ファウスト」の中でも印象的なアリアのひとつ、「金色の牡牛は」をブリュン・ターフェルが先日BSプレミアムで放送された欧州の夏のコンサートで歌いまくっていた。~から、記事で採用したハーディング&パリ管の話を入れて”海外でも「ファウスト」流行ってるのかな”的なオチに。宝石の歌よりイメージしやすいよね的な。
ま、どちらもブログならともかく(こうして書いてますからね)、記事としては使いにくいし、なにより先の話とは言えグノーの「ファウスト」が上演されることがきまった、ということの方が記事の方向にはあっていたでしょう。ということで、遠い未来を待たずに皆さまさっさと読みましょうね、「ファウスト」。長くて融通無碍な第二部に比べて「ファウストの刧罰」のもとになった第一部はむしろ読みやすいですから、お気軽にレッツチャレンジ。リンク先は青空文庫です。
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さて、そんなわけで東京交響楽団創立70周年記念演奏会の中でも、最も注目された公演の一つ、前の音楽監督ユベール・スダーンによるベルリオーズの劇的物語「ファウストの刧罰」を、25日にミューザ川崎シンフォニーホールで聴いた話をしましょう。
◆東京交響楽団 川崎定期演奏会第57回
2016年9月25日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ユベール・スダーン
合唱:東響コーラス、東京少年少女合唱隊
管弦楽:東京交響楽団
キャスト:
ファウスト:マイケル・スパイアーズ
メフィストフェレス:ミハイル・ペトレンコ
ブランデル:北川辰彦
マルグリート:ソフィー・コッシュ
”スダーンの時代があったから東響の今がある”という話は、記事でもここでも何度も書いています、もちろん濃淡ある扱いではありますが。スダーン&東響のモーツァルトを聴いて「きちんと転調が機能している!フレーズをきちんと区切っている!モーツァルトっていうか古典派はこれ大事!」と興奮したのは相当前のこと。響き、アーティキュレーションで「音楽をやるってこういうことだよね」と思わせてくれる日本のオーケストラ、という存在を知って、それ以来のファンなわけです。だってありがたいことじゃあないですか、近くに”音楽的に信用できるオーケストラ”がいてくれるんだから。聴きたい曲をコンサートに聴きに行けばいつでも大なり小なり満足して帰路につける、そんなオーケストラ。千葉の場合、”皆さまにもそういう存在ができますように”という思いも込めて国内オケを紹介させていただいているところ、割とあります。
で、先ほど紹介した記事の話でも書いたとおり、千葉はベルリオーズが大好きです。それも、有名すぎるし演奏されすぎている「幻想」よりも、「ロメオとジュリエット」とか「イタリアのハロルド」とか、なによりレクイエムとか。いいっすよ?って話をする機会が今回ようやく訪れた、とも思うので少し書きすぎた感があります(バランス的にね。書き足りないんですけどね)。記事の中で「ロメオ」を引き合いに出したのは、「協奏曲のはずだったのに、ヴィオラ独奏が終楽章で消えちゃう謎構成」の「ハロルド」よりは、「断章形式でありながら、もとの作品をある程度まで表現する」という点で「ファウスト」にかなり近いところにある、と考えるからです。「ロメオ」が離れ業すぎて、そしてこちらはオペラに近すぎてそういう見られ方をしてないんじゃないかな、と思いましたゆえ。
…誰ですか、「いやどっちの曲もよく知らないんで」なんて言ってるのは。もっと聴いてくださいベルリオーズ。面白いので。目指せ国内勢による「トロイ人」全曲舞台上演!(無理かな)
なお今回演奏されたこの作品、舞台上演する方々もいらっしゃいますけれど、基本的にオペラではない、と前々から思っています。オペラならもっと早くマルグリート出さなくちゃ。せめて第二場ではファウストと出会わないと。(ちなみに、この作品の改変を活かしてオペラとするならば。一幕でファウストとマルグリートが出会い、二幕でいちゃいちゃして三幕で原作でもイラッとくるファウストのウダウダぶりを描きフィナーレで地獄に落ちると構成する、って感じになり、ちょっと「ラ・ボエーム」っぽくなります。その辺の話はまた後ほど)
そんな作品を演奏したのが、楽譜にこだわり抜く高関健(東京シティフィルハーモニック管弦楽団)と、ジャン・フルネの影響を語るユベール・スダーンであったことの幸せたるや。いわゆる有名曲や、安心して身を任せられるスタイルの作品ではないのだから、演奏者への信頼なくして存分に味わうことができましょうや(反語)。今回は東京交響楽団の公演のみ聴いた千葉ですが、スコアを読み込む高関さんの演奏にはもっと触れなくてはと気が急く次第です(過去に群馬交響楽団で数回聴いていますけれど、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団さまとは未聴なのです)。反省。
さて、コンサートは昼公演、”あまり演奏されない曲なのに”なのか、”貴重な機会だから”なのかわからないけれどお客さんは多い、喜ばしい。いいことです、ほんと。ステージには16型のオーケストラ、その後方に独唱者の席が三つと少人数合唱席(後半まで使用しない、児童合唱の席でした)。そしてPブロックの中央部分と少々の両サイド部分に東響コーラスが陣取る格好。ベルリオーズのオーケストラは、後のワーグナーやマーラーと比べれば意外と普通の編成なのだけれど、この作品では二管編成から一人はみ出す四人のファゴットが特徴的(コンティヌオ的な仕事が多いから、他の木管の倍の人数がスコアに指定されているのです)。あと、クライマックスのためにテューバが二本になる第四部も、特殊といえば特殊ですね。でも古典派編成に低音管楽器の増強、そして多めの打楽器であの地獄落ちの音がするのか、などぼんやり考えるうち、演奏会は始まるのです。
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で、演奏を聴いてしみじみと感じたのは天晴ユベール・スダーン、であります。
ベルリオーズのオーケストレーションはこの曲でもいつものようにどこかおかしい、でもとても効果的です。ヴィオラとコールアングレに大きい役割を与えているのは”ダモーレ”の楽器だから、なのかな、などと考えたりもします(ベルリオーズは割と歴史的な楽器法を継承していますので、的外れではないかも)。ちなみにその独特さは、力で押さえつけるような演奏だと生きないように思います。いわゆる熱演、力演で大盛り上がりの幻想交響曲の演奏会はよくありますが(歴史的名盤も、そういうのが多いですね)、ベルリオーズの時代はベートーヴェンのすぐあと、ですからね。古典派的に形をきっちり作れる音楽家がやらないと、ベルリオーズの音楽はぐちゃぐちゃの、ただのヘンテコになる危険があります。ですが古典派に通暁するユベール・スダーンにそんなことがあるわけもなく、そして彼が鍛えた東京交響楽団が彼の指示に対応できないはずもなく。
千葉が事前に楽譜を流して読むだけでも流れを見失ってガクガクしてしまったレチタティーフと歌、そしてオーケストラの演奏の交錯も自然な流れで示されるのはさすがとしか言いようがない。”作品を知り尽くした”なんてのは批評のおきまりのタームだけれど、こういう演奏を前にしたら言って置かなければいけないことでもあるんすよ。彼のオペラは聴いたことがないけれど、機会があれば聴いてみたいです。そうですね「トロイ人」とかどうでしょう(しつこい)。ベルリオーズ・ジョーク抜きでは「フィデリオ」とか、すっごく高潔で品のある演奏になりそうに思いますが如何でしょう?
そしてこの演奏でやっと気がついたんだけど、スダーンの作る和声感はロングトーンの扱いに対する配慮が大きい、気がします。いわゆる管楽器の基本としてのロングトーンじゃなくて、長く音を保持することそのものに対する意識、と言い換えましょうか。旋律だけではなく、裏でさりげなく支える声部がいい仕事をしているから目の積んだ音楽になるし、転調で明瞭に”色”が変わるわけですよ、きっと。その響きに対する配慮、感覚に応えるうち今の東京交響楽団が作られたのだ、と言ってみてもいいかもしれない。お互いに聴きあうアンサンブル意識の高さ、取材させていただいたリハーサルの合間に団員のみなさんがコミュニケーションを取る姿からも感じておりましたが、これが根底に形作られたのが、スダーン時代だったのかな、などと思いました次第。
ここで、現監督とのキャラクタの違いを無理にでも言葉にするならば、前任者は形を作る、現監督は流れを作る、とでもなりましょうか。機会があれば検証してみたいのですが、果たして。二人がオーケストラにもたらすものはかなり性格の違う刺激なので、もうちょっとスダーンにも来てほしく思えました。来シーズンも一回の登場なのが実に惜しい。
千葉の場合、指揮者を褒めるということは、すなわちそれに応えたオーケストラを褒めていることでもあります。どちらかだけがいい/悪いということはありえない。この日の東京交響楽団の響きの、何よりも立体感を賞賛させていただきたいです。ミューザ川崎シンフォニーホールでこそ生きる、ちょっとしたバランスの変化などに伺える配慮が効果的でベルリオーズの天才を証明してくれていましたよ。素晴らしい。歌とハープだけの小編成から、合唱とトゥッティのオケによるパンデモニウムの圧倒的な轟音まで振幅も大きくて、これでこそベルリオーズの管弦楽ですよ。さすがです。
歌については褒める以外に言うことがなくて(笑)。”主役”を暗譜で、身振り付きの歌唱で熱演したスパイアーズ、初役ながら強い声に多彩な声色、ちょっとしたジェスチャーでトリックスターを最後まで演じきったペトレンコ、そして酔っぱらいチームの先陣を切った北川、もっと出番がほしくなったほどの存在感を示したコッシュ。お見事な独唱陣に加え、大編成の東響コーラス、小編成の東京少年少女合唱隊ともども堂々たる歌唱でドラマを描出しておりました。拍手。
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もう十分に長いんだけど、貴重な機会なので作品についてもいろいろと気がついたことを書いておきましょう。あまり展開せず、短めに……
●ベルリオーズはこの作品を、完全に恋愛悲劇で構成した
「ファウスト」の第一部は、悪魔との契約で若返っている基本設定がなければ「ラ・ボエーム」にもなりかねない、哀しい恋愛のお話です。で、この作品を通してみるとその性格をはっきりと打ち出しています。悪魔との契約は不明瞭のまま始まり、最後の最後、マルグリートを救うために契約するファウストは、原作のそれとは相当違う人です。
ここで現れるファウストはいわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレス。もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない、とすればすべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが少し気になる、ような気もしますね。原作ではお互いに万事を知り尽くした学者と悪魔の化かしあいの末にファウスト博士があのセリフを言うところに圧倒的なカタルシスがあるわけで、第一部がメインだとそうはできかねる、というのは理解できるのですが。
原作は、ある意味で博士&悪魔のバディもの、そして互いに出し抜こうと抜け目なく振る舞うコン・ゲームものの性格もあって、それ故に立体的な構成になっているわけだからこの改変は惜しいけど、さすがに尺の制約というものはあるわけですね。もしかすると「ファウストの刧罰」は、ゲーテが最初に著した原ファウストに近いものになっているのかもしれない。
●ファウスト博士のキャラ設定が微妙
既に書いた内容とも被りますが。「ファウストの劫罰」のファウストは若く、そしていわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレスです。彼らの契約はクライマックスの直前、マルグリートを救うための手立てを用意させるためのもの。不可能を可能にするための契約によっていわばいきなりに地面に穴が開いて地獄に落とされるかのような勢いのある展開です。これを可能にするために、もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない。そうなった結果、すべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが消えてしまうので、そうなるとマルグリートとの間で子をなしてしまう(その上で逃げる)のはちょっと若気の至りにすぎないかな…
●構成が少し見えたかも
冒頭で(ハンガリーで!)ファウストの独白に続いて聴こえる合唱が主の復活を喜ぶ合唱なのは、クライマックスの地獄落ちに対応している。ということは、もしかするともう少し照応させられるように作品を構成している可能性がある、ような気がする。これはただの思いつき。
●「劫罰」はこの時点の集大成
過去の作品でも印象に残るベルリオーズ音楽の特徴を随所で感じることができる。このメンバーで聴きたいです、レクイエムとか。
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ああ、また長くなってしまった。反省はしていませんが(おい)、今回の記事はここまで。ではまた。
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