2012年12月9日日曜日
いま思えば、酷い回り道
こんにちは。千葉です。
シベリウスの交響曲、何度も自分なりにまとめようといろいろ聴いて本を読んで、試みてはみたけどどうにも筆が進まない。でもまあ、そろそろいけそうです。でもプロローグ的に、その筆の進まなさのその訳を、少しばかり紐解いてみましょう…
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そもそも、なんですけどね。千葉は彼の交響曲第一、第二番とはそれなりにつきあいがあるはずなんです。
まず第一番。高校生の時に吹奏楽編曲された第一楽章を演奏した、さらに「フィンランディア」も演奏した。両曲ともテューバがなかなか面白い、演奏して楽しいものだったのだけれど、その当時はオリジナル管弦楽版にあたる習慣など、ほぼない(例外はドビュッシー)。映画を知らずに映画音楽を演奏して、原曲を知らずに編曲ものを切望する。怖いもの知らずというかなんというか。近年の吹奏楽少年少女がそんな蛮勇を振るっていませんように。
第二番は、たしか大学に入ってそれほど時間の経っていない頃、仙台に来演した東京大学の管弦楽団が演奏したのを聴いたのが最初だった、はず。知らない曲だったけど第三楽章からフィナーレへのつなぎ、そしてその鮮烈なファンファーレに大いに感心して、すぐにCDを買ったのを覚えてます。それは忘れもしないバーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のもの。当時一番入手しやすかったから、ですが(いわゆる名盤のリイシューをまとめたベスト100はその頃からでしたね、売上税じゃなくて消費税が導入されたその頃です)、それがたぶん千葉が最初に買ったウィーン・フィルハーモニーの録音じゃないかなあ。フランス近代からクラシックに入るといわゆる型どおりの入門ができなくて困りますぜ(笑)。
右側のジャケットに愛着はあるけれど、これから買うなら左のボックスでしょうねえ、お値段も違い過ぎますし(この価格差の話はいつできるのだろうか)。
編曲されたものではあったけどその作品を演奏したこともある、作品に心動いて録音を入手し、しかもそこでバーンスタイン、ウィーン・フィルハーモニーとも出会っている。フィクションならここで運命的に縁が深まるところなんですけどね、千葉の場合は何も起こりませんでした。そういうものっすね現実。または哀れなり凡庸なる私(笑)。昔話はこの辺で…
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では聴き込むシリーズを始める前に、シベリウスについての事実関係を整理しましょうか、自分なりにですけど。
ジャン(ヤン)・シベリウスは1865年12月8日に生まれ、1957年9月20日に没した。91歳の大往生。
約90年もの生涯で交響曲は七曲か、少ないなとか思いますよね、なんといっても交響曲なんだもの、九曲は書かないと(おい)。でも彼の作曲のキャリアを見ていくと、出世作の「クッレルヴォ」(1892)から交響曲第七番(1924)までの、30代から50代までに限定されてくるんです。ちょうど世紀の変わり目、そしてそれは時代の変革期でもあった日々を作曲家として生き、そして世界恐慌を前に筆を絶つ。作曲をしなくなった(いろいろな証言から考えると「発表しなくなった」、が妥当か)シベリウスはその後の大戦争も冷戦も同時代人として経験している、でもその時代に彼は作曲家としてのアウトプットをしていない。研究者ならばそれが生業だけれど、ただの素人がその点についてどうこう言うのは正直僭越にすぎる感もある。なので交響曲の話のあとにも、この点は詮索しません。悪しからず。個人的には、そこに何かを見いだすもよし、あえて問わぬもよし。そう思う次第であります。
こうして生涯の見取りを大まかに書いてみると、またよくわからなくなる感じがします。対話のエピソードが残っているからマーラーの同時代人だと思うこともできる、それも異なる交響曲観の持ち主としての対話にはなかなか考えさせられる。少なくとも、「交響曲」ってなんなんだよ、と思ったことのある人ならスルーできるものではございますまい。
また、オーマンディの演奏を高く評していたというエピソードからは大戦後まで生きたことをいやでも意識させられる。今回聴くかどうかは微妙だけど、この盤のジャケットとか、刷り込まれちゃいますよね(笑)。
ではまた角度を変えてみましょうか。
先ほども書いたとおり、晩年の禿頭の写真が教科書に載っていたりしたから老巨匠のイメージがあるけれど、実際には作曲家としては壮年期にその活動を終えている。Wikipediaにさえもう少し若い頃、1913年撮影の写真もあるのに、なぜ最晩年の写真を使ってたんでしょうね、っていうか著者近影?(笑)ちなみにWikipediaにある写真の時期は交響曲でいうと第四と第五の間です。大戦前、ですねえ…
ううん、言葉でつらつらと書くとダラダラと長くてわかりにくくなりますね、整理の意味で以下に作曲年代一覧を、千葉の考えるシベリウスの有名な作品で作っておきましょう。
1892年 クッレルヴォ
1899年 交響曲第一番、フィンランディア
1902年 交響曲第二番
1903年 ヴァイオリン協奏曲(1905改稿)
1907年 交響曲第三番
1911年 交響曲第四番
1915年 交響曲第五番(1916年、1919年改訂)
1922年 交響曲第六番
1924年 交響曲第七番
単純に計算して出世作「クッレルヴォ」が27歳ころ、そして最後の交響曲が59歳頃。六十代以降の作品はわずかに交響詩「タピオラ」、劇音楽「テンペスト」などわずかしかない。ということは92歳で没するまでに約30年間の沈黙がある、つまりいわゆる晩年の作がないということになるのです。であれば、生涯の変遷でその音楽を捉えることは困難です。もちろん、同時代の人たちであれば一曲ごとに反応したりして、その変遷を生涯と時代に関連づけて受け取ることもできたでしょうけれど、我々後世の者共は否応なく時間的にも地理的にも遠くから、彼の生涯が交響曲第七番の後にも続いたこと、第八番が書かれていた、しかし公にはされなかったことも知ってしまっている状態で俯瞰するしかないわけで。拡大鏡が必要ですよね、それなりに。
ただの素人には仔細な時系列の変遷は追いにくい、しかしそれでも彼の交響曲が一曲ごとにかなり異なる個性を持っているのもまた事実。さてどう捉えたものか…っとか、ずっと困っていたわけなのですよ。
正直なところ、音楽を聴いてそれがどういう作品かを正面から捉えて言語化を試みる、その上で受け取れたものを可能な限り借り物でない言葉で書いてみる、それ以外のやり方はないんですけどね…これまでだってそうだったのに、開き直るのに時間をかけすぎました。反省。なまじ少しばかり知っているから、余計な迷い道にはまってしまいましたわ。やれやれだぜ…
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今の時点でシベリウス作品を俯瞰してどうこう言うのはやめておきましょう、聴き終わった時点で何かの答えが見えることに期待して。正直な話、集中して聴き込もうとしている今、あまり先は見通せていませんし(笑)。彼の一連の交響曲からおおまかなつながりや連続性を見出そうとするのは正直なところ無理があるように思えます、今はまだ。第七番までまとめ終わった時点での認識が違うものでありますように、と切に願うシベリウスのお誕生日(12/8)、でした。日本時間では日付変わっちゃいましたけど(笑)。
きっと、既にシベリウスが好きな、千葉より詳しい方にはまったく役に立てない不定期の一連の記事となることでしょう、検索で引っかかっちゃった方には今の時点でお詫び申し上げておきます。もしご不快でなければおつきあいくださいませ~。ではまた、ごきげんよう。
最後におまけをひとつ。この映像がソフト化されてたら、きっと言及する対象にしていたことでしょう。サロネン&スウェーデン放送響の全集から、大好きな第五番を。
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