え~、酷い夏バテです。久しぶりに関東の夏を全身で逃げようもなく経験して、あっさりと負けています。盛夏はこれからというのに、千葉は生き延びることができるか。この調子では刻の涙を見て木星に行って終わってしまうのではないか(なぜガンダムしばり)。
そんな具合であるがゆえ、とある記事が完成できず寄稿できませんでした。いろいろすみません。
でもほとんどできているので(というか、実は記事二本分の内容であるような気がする)、こちらにお出しします。明日日本初演、ガブリイル・ポポフの交響曲第一番の話です。指揮は飯森範親、オーケストラは東京交響楽団です。詳しくはリンク先で。以下本文。
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ガブリイル・ポポフ(1904-1972)が数年をかけて完成した作品、交響曲第一番(1934)がついに飯森範親の指揮の元、東京交響楽団によって日本初演される。と紹介すると「80年も前に作られた、もはや”現代音楽”とも言えない昔の作品なのに、なぜ今ごろになって日本初演なのか」と疑問に感じられるだろうか。だがそう問われれば「この作品はそれだけの”問題作”なのだ」と答える他ない。
少し歴史の話をしよう。第一次ロシア革命(1905)前後から、革命と並走するように勃興した「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる一連の芸術運動があった。イタリアの未来派とも共通する過去の伝統と隔絶する思潮を持ちながらも、ロシアでは革命との”協働”によってその成果は独特なものとなり、一目見れば忘れようもないほどのインパクトを残すポスターなどは現在でも模倣やパロディとして取り上げられ、目に見えて影響を与えている。美術、文学、建築など幾つものジャンルにおける芸術運動の流れの中に、もちろん音楽もあった。アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)から、1930年代のドミトリー・ショスタコーヴィチやガブリイル・ポポフの若き日々に至る、短いとは言えない期間にロシア・ソヴィエト独自の新しい音楽が作られている。例を挙げるなら短い作品だがアレクサンドル・モソロフの「鉄工場」(1926)が示す感情を排した描写によるストレートな未来主義、技術礼賛は音楽におけるひとつの典型といえるだろう。
(このポスターはアレクサンドル・ロトチェンコの有名な作品(1924)だが、数多くのパロディでご存じの方も多いことだろう。余談だが、筆者はこのポスターをデザイン化したTシャツを持っている。着ている時に人に見られるような気がする事が多いので「さすがロトチェンコ、人目を引きやがる」などと思っていたけれど、もしかして人々はフランツ・フェルディナンドのジャケットだと思って見ているのではないだろうか。まさか「たのしいプロパガンダ」ではあるまいな。さて。)
そんな挑戦的な試みの時代を終わらせたのが1930年代のスターリンによる大粛清であり、こと音楽はショスタコーヴィチを名指した「プラウダ批判」(1936年)でとどめを刺される。若き天才がその才能を存分に発揮したオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は新作ながら大ヒットする。各地のオペラハウスがこぞって取り上げるロングランとなったばかりに問題作がスターリンの目に留まることになるのだから皮肉なものだ。この作品を名指しして「音楽ではなく荒唐無稽」と批判され、作曲中の交響曲第四番は完成にこぎつけるも初演を公演直前に撤回、その後25年放置されることになる。
そしてショスタコーヴィチ生涯の友人、ポポフの交響曲第一番はそのわずか2年前に作曲されて、当局から演奏を禁止されていた、ある意味先駆的な問題作なのだ。いや、演奏禁止自体はほどなく解除されるのだが、当局に目をつけられていたショスタコーヴィチのお気に入りの作品で、なにより一度は当局が正式に否定した作品に手を出す者もなく、冷戦の終わりを目前にした1989年にゲンナジー・プロヴァトロフの指揮、モスクワ国立交響楽団によって世界初録音が行われて、ようやく”封印”は解かれることになる。2004年にはレオン・ボッツスタイン指揮ロンドン交響楽団によるレコーディングによってその真価が広く世界に知られた、”あの”ショスタコーヴィチの第四番に先行した問題作がついに日本でも演奏されるわけである。
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ガブリイル・ポポフ(1904-1976)はショスタコーヴィチより2年年長で3年ほど先に亡くなっている、まったくの同時代人で生涯の同僚、友人だった。六つの交響曲(第七番は未完)他、多様なジャンルで多くの作品を残したポポフだが、上記の事情もあって交響曲第一番の前後で大きく作風が変わっている。ヒンデミットやシェーンベルクなどのモダンな作品に大きく影響されて奔放な活躍をしていた初期の作風は否定されたため、当局が求める社会主義リアリズムへと大きく創作の傾向を変えたのだ。せめて、第一番に続いて構想されていたという”第二”の交響曲※が作られていれば、これほど忘れられることもなかっただろうけれど、当時のソヴィエト社会が求める作品を作るようになったポポフは後世の評価としては残念ながら「ソヴィエトの凡百の作曲家のひとり」として生涯を終えている。
※実際に書かれた第二番(1943)は映画音楽を元にした作品で、第一番とは似たところのない穏当な、古典的ですらある曲調となっている
それでも彼の名を音楽史に残し、彼自身の転機となった交響曲第一番は、四管編成に大量の打楽器を用いた大オーケストラのための意欲的な作品だ。三楽章の交響曲であることも含め、直接にショスタコーヴィチの交響曲第四番の先駆的作品といえる。フレクサトーン特有の音型を管弦楽が模したようなフレーズや、大編成の管弦楽の咆哮、そして見逃せないフィナーレにおけるスクリャービンの濃厚な影響など、一度聴いたら忘れようもない強い印象を残す交響曲を作曲していたこの時、あきらかにポポフはショスタコーヴィチに負けない才能だった。そのことは今度の日本初演で多くの音楽ファンが認識することだろう。
生涯の友人同士が触発し合った作品だというだけではなく、ポポフの交響曲第一番とショスタコーヴィチの交響曲第四番には共通点がある。この二つの作品は、当時ナチスを避けてソヴィエトに亡命していた指揮者、フリッツ・シュティードリーにより演奏されているのだ(もっとも、ショスタコーヴィチの作品は上記のとおり最終リハーサルの後に”初演”は中止され、1961年にようやくキリル・コンドラシンによって初演されるのだが)。
ウィーンでグスタフ・マーラーに見出されてドイツ各地の歌劇場で活躍、後年メトロポリタン歌劇場と残した録音が知られるマエストロは、1934年からレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めている。ショスタコーヴィチの交響曲第四番の初演撤回について、長らく”シュティードリーがこの複雑な作品をこなせなかった””乗り気でなかった”などと批判されてきたものだが、既にショスタコーヴィチを刺激したポポフ作品を初演し、後年にはシェーンベルクの室内交響曲第二番を初演した彼が「マーラー的な作品を理解できなかった」というのはさすがに失礼ではないか?と筆者は長年感じている。むしろポポフの交響曲第一番をめぐるトラブルを経験していた彼が、才能ある作曲家が当局に挑みかかるような作品を創りあげてしまったことを誰よりも理解したがゆえに、演奏後のトラブルを心配して初演の中止を進言した、とは考えられないだろうか?…もちろんこれは想像でしかない、「正解」は歴史の闇の中なのだけれど。
政府が名指しでショスタコーヴィチを責め、交響曲第四番を作曲しながら初演しなかったその翌年である1937年にシュティードリーはソヴィエトを離れ、彼が担っていたレニングラード・フィルの常任指揮者後任には当時まだ30代前半の若きエフゲニー・ムラヴィンスキーが着任、ショスタコーヴィチの交響曲第五番を初演して長きに渡る指揮者と作曲家の交流が始まる。ポポフの交響曲第一番はそんな時代の音楽だ。長く封印されたその音楽は、80年の時を超えてようやく日本でも鳴り響く。(本文終わり)
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これにですね、もう一つか二つのショスタコーヴィチのコンサートを組合せた記事にすることを考えていたんですが、ちょっとその構想の時点で夏バテだったようです。自覚症状がないって怖いですわ。
その続きはそう長くないもののはずなので、あとでちょろっと書きますね。ではまた。
※追記:続き、ちょっとだけ書きました。はじめからB面寄りのテイストですみません(笑)
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