2015年12月5日土曜日

書きました:片山杜秀が、黛敏郎と「金閣寺」を大いに語る

こんにちは。千葉です。

諸般の事情から記事のご案内も滞りがちで申し訳ないです。ガンバリマス(どこかの目が死んでる島村さん風に)。

本日、そして明日と上演されるオペラの記事はちょっと無理して紹介しておきます。手元不如意故千葉は行けませんけど、行かれる方がこの作品を骨の髄までお楽しみになるためのお手伝いになりますように。

●片山杜秀が、黛敏郎と「金閣寺」を大いに語る

神奈川県民ホールで上演される黛敏郎の大作、歌劇「金閣寺」の関連企画として行われた音楽講座の全力レポートです。片山杜秀さん、現物もあんななのかしら…(ご無礼)という興味半分で伺って、あまりの面白さと情報量にこんな入魂のレポートになってしまったという(笑)。

レポートには書き入れなかった小ネタを二つ。
「当日隣り合わせた、当然存じあげない妙齢の女性が休憩中に「これ面白いわね!」と楽しげに話しかけてきたくらい講義は面白かった」
「逆側のお隣には一柳慧氏がいらした」
どちらも説明無用ですね(笑)。


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で、これはもう完全に記事としてお出ししにくい個人的な見解なのでこっちにざっくりと書きましょう。とか書きながら「時間が作れればこっちを「Side B」的な位置づけでいろいろと作れるかもな」とか思ったりしてしますよ。

この作品、片山講義でも「金閣寺を表すモティーフは、冒頭合唱が”金閣寺”と歌うところで示される六音」である旨指摘されていまして、その後唯一の録音である岩城宏之の日本初演盤を聴きこむうち、「これはもしかして、ベルクの「ヴォツェック」的な、器楽的変奏で”タイトルロール”を示すやりかたを試したのか?」という疑問がわきまして。
そんな疑惑(笑)を抱いて聴きこめば他にも気になるんですよドイツ・オペラ的な手口が。演出の田尾下哲がはじめ引っかかりを感じたという「尺八演奏」の場面、あれは「ジークフリート」の草笛的にも思えるし、なにより最終的なカタストロフが炎上ということでついちょっと「神々の黄昏」を想起しなくもない。だって最後、台本ではマッチじゃなくて薪を持って金閣寺に行くんですよ主人公。そこでお馬さんを呼んでいたら完璧でしたね(嘘)。え?燃やす前に話は終わるじゃないか、ですか?たしかに劇中ではこれから燃やしに行く場面で終わっているけれど、音楽はもうこれ以上温度が上がらないくらい高まっちゃってるわけで、あれ以上の終わらせ方は難しいのではないかしらん。

三島の小説は事後の脱力感を伴うアンチクライマックスで終わるので、このオペラとはかなり方向が違う。映画「炎上」は外枠として刑事事件化された金閣炎上を用意しているから、三島の小説より後まで描かれたかっこう。
対して、オペラの台本では行為に至るプロセスについて、片山氏が言っていたとおり比較的シンプルに追い詰めて行くサスペンスがメインとなるドラマであります。冒頭で示された問、「彼は現代の英雄たりうるか?」に対して行動を持って答えとする、というのはオペラの制作年代が1970年代であることを思うと、その答えはなにか袋小路の先進国テロ時代を思わせられる行動主義、決断主義でありますけれど。その時代にあえて、ロマン派的ドイツ・オペラを作ってしまった黛の底意たるや如何。とか、感がてしまった次第でありますよ。

とりあえずこんなところかな、行かれる方は是非楽しんでくださいね、千葉の分まで。あはははは。

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そうそうそう。最後に一つ。金閣寺モティーフが六音で作られたのは、その変容を形式にはめて作りやすいから、というのがメインの理由だろうなと思います。前述のベルクへの連想は明らかにそこから来ていますし(「ヴォツェック」のパッサカリア参照)。

でも気づいてしまったんです、金閣寺は鹿苑寺、ろくおんじだった、って。お後がよろしいようで(投げ込まれる石、中身の入ったペットボトルを見もせずに退場)。


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