2019年4月8日月曜日

「闘うマーラー」を聴けた ~東京フィルハーモニー交響楽団 第917回オーチャード定期演奏会

天気のいい日曜日、もう春かな…なんて日に、渋谷でマーラーを聴くのは酔狂なのか。いや、断じて否。個人的には春の気配を感じたら「大地の歌」を聴きたくなる私はそう断言しよう。今回は違う曲ではあるけれど、まあ精神的音楽的に近い作品ではある。行く前からそんな理論武装をしていたわけではないけれど、ホールへのルート開拓のつもりもあってHakuju Hallのあたりから小洒落た道を歩いていざBunkamuraへと行ったのさ。奥渋って言うのね、あのあたり。

会場に着けばちょっと驚くほどの人だかり、最後尾を示す整理の人まで出るほどの盛況である。「さすが名曲の中の名曲、これだけの人を集めるとは痛快ゝゝ」なんて一瞬思ったけれど、収容人数に限界のあるコンサート(しかも一回公演)が理由でそんなことが起きるはずもなく。同時に「ザ・ミュージアム」で開催されている「Winnie The Pooh」展の大混雑でした。さすがだな、プー。

冗談はこのあたりで。気を取り直して入場するオーチャードホールは、こちらのコンサート。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第917回オーチャード定期演奏会

指揮:チョン・ミョンフン
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

マーラー:交響曲第九番 ニ短調

チョン・ミョンフンの演奏ともしばらくご無沙汰をしてしまった。その間にもマーラー(第二番)があったのに、とか後悔しても文章は面白くならないので話を進める。かつてのシェフの時代はあまり聴けず、最近になって東京フィルとの演奏を聴くようになった私としては、まだチョン・ミョンフンというマエストロの個性というか手癖というか(失礼)、そういうものが掴めていない。まだよくわからないままに聴くたび感心させられてきたのだけれど、そろそろそのやり方をわかりたい。そんな気持ちも少しはあったと思う。多くの演奏を録音で聴いて、いくつかの実演にも触れてきたこの曲なら、もしかして少しは。そんな目算もしていたかもしれない。さてその結果や如何。

例によって最初に結論を書く。私が以前から聴いてみたいと思っていた、「”英雄”が勝利を掴みそうになる第一楽章」を聴くことができて、幸せでした。第二、第三楽章にベルクを感じ、第四楽章の敗北の先にも満ち足りた語り手の存在をイメージできてなによりでした。

パンフレットに掲載された野本氏の解説は、私に甚大な影響を与えたレナード・バーンスタインの言葉を多く引いたものだから、できたら全肯定して文を進めたいところなのだが今の私にそれは無理なので、少し書く。
まず、そもそもマーラーの実際の死因である「連鎖球菌からの敗血症」と“ストレスから来る心臓病“では全然違う。突然の病に倒れた働き盛りの50代になったばかりの男性の死を、死に怯え続けた生涯を送り私生活でのトラブルもあってストレスから死んだ、なんて受け取るのはどう考えても失礼極まりないと思いませんか皆さんどうですか。
ちなみに現在のアラフィフ指揮者()をざっくりあげてみますと、ド・ビリー、アラン・ギルバート、ハンヌ・リントゥ、サッシャ・ゲッツェル、ダン・エッティンガー、テオドール・クルレンツィス、ウラディミール・ユロフスキ、そしてキリル・ペトレンコなどなど。もし彼らが亡くなったら驚くでしょう?もし当時の平均寿命が、という観点で批判されるならば60才前後の指揮者をあげてもいいけれど、それでも指揮者の場合は衝撃の若死にと受け取られることでしょうからここでは割愛。ということで書いておきますが、グスタフ・マーラーの死は「突然の病変を、当時の医療では治癒し得なかったための急死」です。詳しくは前島良雄さんの著作をお読みになってくださいませ。

さて演奏会の話に戻ります。
この作品の精密さ、繊細さ故につい忘れがちなことだが、1910年ころの巨大なオーケストラ作品が作られた流れの中にある作品だ、と客席に入ってすぐに理解させられる。広いはずのオーチャードホールの舞台には、16型(コントラバスが10人!!)に四管編成のオーケストラが所狭しとセッティングされている。ちなみに、だけれど1910年の有名な作品は「火の鳥」、「薔薇の騎士」などがあり、マーラーの作品ではあの交響曲第八番が初演されている。そういう時期の作品なのだ、と今さらながらに認識して開演を待つ。

先ほども少し書いたとおり、私はチョン・ミョンフンの指揮について、手法的なものや特徴を言語化できるほどには理解できていない。この人ならこうするだろう、という予想ができるほどには馴染みがない、と言おうか。だからほんのちょっとの予習ということでもないけれど、YouTubeで過去の動画を見てみたが、やはりよくわからない。というのも、彼の指揮は快刀乱麻のキュー出しでオーケストラを見事にさばいたり、極度の感情移入で自分の世界()を創り出したりするようなものではまったくないからだ。その必要がないならば淡々と拍を刻んでいるようにしか見えないが、ちょっとした視線や手、体の動きをきっかけに気がつけば音楽が大きく動き出す。その効果のほどと言ったら、もう。それこそこの日の第一楽章の序盤は静かな音楽と言ってもいいものだったろう。だがひとたびマエストロが身体を左右に振り始め、指示出しと表情付けを始めると音楽はとたんに雄弁になり、熱を帯びていく。第一楽章ではこの語り口がこの上なく効果的に機能した。

私は以前から、この音楽が死に怯える心の弱い音楽家の作として語られることに疑問を持っている。たしかに、この音楽で描かれるドラマは敗北する物語かもしれない、最終的に”主人公”は死んでいくのだろう(最後の表情記号がersterbendだから、などと細かく言うまでもないだろう)、だからといってこの作品が恐怖に怯え、心を病んだ人間のモノローグのように響くのか?まさか。
この日の演奏では、最終的には敗北するけれど雄々しく戦った”英雄”の物語として、力強い音楽が示された。春めいていたからマチネだったから、なんてことはないと思うけれど、東京フィルの明るい音色で紡がれる第一楽章はこの上なく美しく、なにより強い意志を感じさせるものだった。ベルクが絶賛したのも納得である。この楽章で描かれるのが「頂点にたどり着くことがそのまま敗北の始まりである」ような悲劇なのだとしても、負けを、死を怖れて心を病むようなものでは決してない。マエストロと東京フィルは音でそれを示してくれた。
ではそんな演奏ではこの音楽が併せ持つ、20世紀初頭の挑戦的な作品である側面が描かれないかといえばそうではない。円熟した技法による複雑な心理描写は、シェーンベルクの音色旋律や、ベルクが得意とした破局的ドラマにそのままつながるサウンドとして随所に聴かれ(第二楽章はそのままベルクだった、と言いたくなる出来)、と数多くの作曲家たちに先駆した作品であることがすぐ理解できるサウンドが聴かれた。マエストロが軽く足踏みしてから始められた第三楽章の安全運転とは決して言えない快速な基本テンポは揺らいだりせず、もはや無機的な運動の限界に至るかというタイミングで中間部の美しい音楽に移行し、ここではフレーズを自然に動かすマエストロの手腕とそれを存分に音にするオーケストラの対話が素晴らしい音として届いた。この楽章の最後、楽譜にもテンポ指示があるところ(Piu Stretto、3-Taktig)での猛前たる加速、そして突然のハードブレーキングの繰り返しも見事に決まり、最後にブレーキを踏まずに壁に衝突した帰結を見せられるような楽章の終わりに、大いに圧倒された。そして始まる終楽章。ここまでにも気がついていたのだが、チョン・ミョンフンの元で東京フィルの弦楽セクションはその響きを自由に変えてくる。特にその色彩、厚みを自在に変えて表現を多彩にしていくさまは実に魅力的で、その素晴らしさに感心して聴き入った次第だ。テンポに緩みがないこと、基本的な音色の明るさゆえに、私には死がどうのこうのといった通説よりは、もう美しい記憶になってしまった遠い過去の敗北の物語を聴いているようにさえ感じられたが諸氏諸兄は如何でしたか。答えは募集していませんので、各自反芻してください。いわゆる最後の一ページ、チェロがひとりで奏で始めてから最後に音が消えていくまで、私は自分が生きていることも忘れて耳を澄ませていたと思う。
この日、音が消えて程なくしてマエストロが緊張を解き、場内からは力強い拍手が湧いたわけだけれど、私はいわゆる”長い沈黙”に意味を感じないのでこの日の聴衆各位にはむしろ敬意を感じた。

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いい加減長くなっていまったけれど、これだけは書いておきたい。
そもそもですね、芸術家が作品で死を描いたら「それは死への恐怖ゆえなのだ」という読みそのものが私には疑問だ。メメント・モリは長年にわたって芸術の主題ではないのか、と正面から問うても良いが、私としては「それじゃすべてのミステリ作家は死を恐れるあまり作品を書いているのか」とまぜっ返しておきたい。いやミステリが芸術かどうかは評価が分かれるかもしれませんけど。
私には、マーラーの早すぎた晩年の作品群は「正面から死に直面してなお、生きて帰ってこられるほどに心身ともに充実した時期だからこそなし得た仕事」です。その力強い仕事を、明るく美しい音をベースに描いてくれたチョン・ミョンフンと東京フィルハーモニー交響楽団に感謝を。

そして帰り道からつらつら考えていたのだけれど、第三楽章でトランペット、トロンボーン&テューバが全音符を奏でるあれ(マエストロの解釈だとここだけテンポ感が失われるように意図されているところ)、彼はここを鐘の模倣として解釈していたのではないかと最近になって思い至った。猛スピードで展開する浮世のあれやこれやをすべて無に帰してしまう、超越的音声としての鐘。まあ、そういうのはまたこの作品に出会う機会にでも考えることにします。

最後にもうひとつだけ。
終演後、クロークに並んだ私の前にはご家族連れがいらっしゃいまして。どう見ても小学生の男子もいたのでつい「さすがにその子にこの曲は重くないかい」なんて一瞬思ったけれど、いつか出会うべき作品に、こんな演奏で出会ってしまうのもなにかの縁なのだろう、そんなふうに思い直した私である。この曲に生涯出会えないことの不幸を避けられて、この演奏でこの作品に出会えた幸運に恵まれた彼に幸あれ。
…なお、私の最初のマーラーは「ブームだというし聞いてみるかと点けたFMで、第一番か第二番どちらかを聴いている途中で寝落ち」というものだったことを申し添えて本稿はおしまい(台なし)。


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