2019年6月15日土曜日

かってに予告篇 ~ 東京交響楽団 第671回定期演奏会/ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第147回

東京交響楽団 第671回定期演奏会ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第147回

2019年6月
  15日(土) 18:00開演 会場:サントリーホール 大ホール
  16日(日) 14:00開演 会場:カルッツかわさき ホール

指揮:ユベール・スダーン
ピアノ:菊池洋子
管弦楽:東京交響楽団

シューマン:
  「マンフレッド」序曲 Op.115
  ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
チャイコフスキー:マンフレッド交響曲 Op.58

ベルリオーズ、ヴェルディ、アダン、そしてシューマンとチャイコフスキー。こんなふうに作曲家の名前を並べただけでは意味がわからないけれど、こう付け足してみたらどうだろう。「イタリアのハロルド」、「二人のフォスカリ」、「海賊」、そして「マンフレッド」。そう、バイロン卿ことジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)の作品を音楽化した作曲家だ。強く文学作品に反応したベルリオーズや、舞台作品の原作としてバイロンの作品を選んだ二人は自然な成り行きとも思えるが、「マンフレッド」を音楽化した二人はどうだろうか。

まずシューマンから見てみよう。彼もまたベルリオーズ同様に文学気質の作曲家だから、彼の場合は自身愛読した作品の劇付随音楽を作る機会を逃さない、というのは自然な流れだ。
対してチャイコフスキーだが、交響曲第四番を作曲した充実したこの時期にこの作品を音楽化したのは、彼自身の発案ではない。スタソフとバラキレフがかつて企図したベルリオーズによる音楽化が、時を経て人を変えて実現したのがこの作品なのだ。かつて幻想序曲「ロメオとジュリエット」の作曲を薦めた恩師とも言えるバラキレフからの提案に、すでに「白鳥の湖」や「エフゲニー・オネーギン」で舞台音楽の経験も積んでいたチャイコフスキーが、劇音楽ではなく交響曲としてこの戯曲を音楽化した。独特で複雑な経緯を経て誕生した、チャイコフスキー唯一の番号なし交響曲なのだ。

では、そのバイロンの「マンフレッド」がどのような作品かといえば、「ファウスト」との相互影響もあり、また後世には「ツァラトゥストラはかく語りき」にも通じるような、人でありながらその域を超え出ようとする主人公の、滅びのドラマだ。ロマン派の理想とも言えそうな天才が自己投影もしつつ描き出した「失われた愛と超越のドラマ」は、願望が成就しないことを受け入れた後、肉体の死をもって終わる。霊的存在にもひるまず、宗教的改心を進める声にも従わない傲岸不遜な主人公は、その到達した境地によってファウストやツァラトゥストラに、そしてその末期のあり方において「ドン・ジョヴァンニ」にも通じる存在だ。そうそう、バイロンの代表作には「ドン・ジュアン」もあるのだった。彼自身の苛烈で短い生涯が、そうした登場人物たちにも似ている面もあるのだろう。この機会に、先ほど挙げた作品群だけでも読んでみるといいかもしれない。

チャイコフスキーの作品は、四楽章構成にこのドラマを自由に再構成して乗せたものだ。三管編成のオーケストラにオルガンが加わり※、主人公の憂愁とその死を描いているが、その音楽は他の作曲家たちからの影響を感じさせるもので、その点でも彼の作品としては少々毛色の違うところかもしれない。標題音楽の作曲家としてベルリオーズの「幻想交響曲」、主人公像の近さからリストの「ファウスト交響曲」、そしてチャイコフスキーはあまり用いなかったライトモティーフ的描写にはワーグナーの存在もどこか感じられる。演奏される機会の少ない作品だが、成立過程や影響関係からなのか、独自の魅力がここにはある。

※遅まきながら、ではあるが追記しておく。今回演奏される版ではオルガンは用いられないとのこと。マンフレッドの死を救済として描くのではない、悲劇的高揚で終わるいわゆる原典版は、エフゲニー・スヴェトラーノフの演奏でよく知られる、ある意味「別の曲」である。

ユベール・スダーン時代に、東響はサウンドにフレージングに造形にと格段の進歩を遂げた。そこからノット&東響の積み重ねの中で、どこか優等生的でもあったオーケストラはより積極的に表現する、より主体的なオーケストラとして進歩を続けている。かつてのシェフとの共演は、彼らにも私たち聴き手にもその進化の程をわからせてくれることだろう。その機会にこの作品が選ばれた意味は、演奏会場で確かめることにしよう。



コンサートの冒頭に、同じ作品を題材とする序曲を置くのはわかる。では同じシューマンのピアノ協奏曲はなぜ置かれたのか。
4月に放送された「らららクラシック」で上原彩子氏が語っていた「シューマンからクララへの愛」という解釈を採るならば、原作でも描かれない「マンフレッドとアスターティの愛の場面」の補完なのかもしれない。もちろんそうではないかもしれない。これもまた、演奏会場で確かめたいところだ。



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なお、今回のコンサートにはもう一つ、こんな聴きどころもある。妄想は進むけれど、まずは今回の演奏を聴いて、その先の未来を注目したい。


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