2012年3月12日月曜日

「戦争レクイエム」が気になる今日この頃


こんにちは。千葉です。


実はちょっと前から「小澤征爾の現在を考えるよ、お人柄とか本人の言葉によるんじゃなくてもっと演奏スタイルの変遷を考慮していくべき!」なんて文章を書いてたんです。しかしながら水戸室内管弦楽団の定期公演への出演後の極度の疲労を契機にまた体調を崩されてしまってさらには小澤征爾音楽塾の公演自体をキャンセルと、マエストロの体調を気遣う雰囲気の中で「小澤征爾論」的なものは出すに出せないと言うか、うかつに出すのもちょっとあたりをはばかるような感じになってしまって。何も、その文章でマエストロの音楽をただの好悪で腐そうとしているわけではないのだから仕上げて堂々と出せばよかったのだけれど、遠慮しているうちにこんなことになる、そしてそもそものお題から別のことにいろいろと思いを馳せてしまったものだから、いけません。

そんな具合に迷いはあるのだけれど、そのとっかかりだけは忘れてしまわないように今のうちに書いておこうかな、と思うわけです。
長い前ふりをした(笑)、書きかけの本論はブリテンの「戦争レクイエム」をめぐって、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ他の演奏によるものと、同じレーベルの伝説的自作自演とを並べることで見えること、あるんじゃないかな、という内容です。ゆるくご期待いただければ幸いです(笑)。



では以下、思いつきの数々を。

・バーンスタインとブリテン

この曲に馴染んでからみると、バーンスタインの声楽入り大作である「ミサ曲」(1971)、交響曲第三番「カディッシュ」(1963)などの作品、そもそもこの作品抜きには考えにくいもの、に思えるんですね。いやはや、不明を恥じるところであります。
同じく英語圏の20世紀の作曲家として、十二音技法にはじまるいわゆる前衛的手法には向かわなかった作曲家として、その嗜好の共通する個人として。少なくない共通点がありながら、彼の膨大な録音の中でブリテンは管弦楽入門と歌劇「ピーター・グライムズ」からの抜粋などほんの僅かばかり。えっと、それは裏読みをしてみると解釈が通っちゃうような気が…
作曲家としては生涯自らの手による「本物のオペラ」を求めたバーンスタイン、ブリテンの作品を重ねて見ることで何かの別の絵が見えるかも?とか、つい考えてしまうのです。これはバーンスタイン自身の文章なんかも参照してみないと追いきれないお題なので、やるとすればけっこう先でしょうねえ…



・オネゲルとブリテンの並行性、同時代性?

これは本当に思いつき。二人とも20世紀前半から活躍し、前衛とは言えない作風で比較的広く同時代に受け容れられた作曲家。ブリテンの「戦争レクイエム」に対して、オネゲルには聖書を題材としたオラトリオなどの作品、「火刑台上のジャンヌ」があり、そこからは20世紀の宗教観のようなものが、見えるかな?
オネゲルの交響曲第二番(1941)、第三番(1945)と、ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエム(1940)との関係の有無?などなど、並べて見るとちょっと気になる要素がある、ような…
「戦争レクイエム」の影響からショスタコーヴィチの交響曲第一四番が作られたような影響関係もあるのだから、相応に考えてみてもよさそうな気がします。もちろん、「そんな時代…」というだけのこと、かもしれないのだけれど。これは展開、できるのかなあ(笑)。



・明確な、といっていいほどのプロットの存在、それはあたかも壮大な観念的ドラマ、なので

この作品、小澤征爾とSKOがかつてシェーンベルクの「グレの歌」で試みたようセミステージ上演もありだと思います。というか、おそらく「グレの歌」よりもいい上演になるんじゃないかな、とか思っています。もちろん死者のためのミサ曲を舞台化するのだから、かなりの覚悟と準備が要るでしょうね(笑)、その上異様に大掛かりな舞台になる上に(映像で観念論をやるのは大変でしょう、きっと)、演奏だけで受け取れる人には無用なものになりかねないので、公演の失敗は目に見えているという。やれやれ(笑)。

この作品の構成で、聖書の詩句とオーデンの詩句を対比させてどうこう、まではすぐわかりますが、その対比は通常の典礼文で構成されるレクイエムが示す祈りのドラマとは別の絵柄を導いていると思うのです。歴史を背負っている、改変など考えにくい確立した硬いテキストである典礼文に対して、オーデンの創作による詩文はいかにも柔らかく、不確かな目の前の惨劇をどの様に受け止めるのか、と問い続ける。ベル・エポックのあとに現れてしまった巨大な力による破壊の影響の大きさが強く感じられ、そしてそこからは巨大すぎる力に直面させられた兵士たちに現れたというシェル・ショックなどの精神的外傷のことなど想起せずにはいられない。
このような対比がこの作品における並びにて示されたとき、その意図は多大なる戦争被害という不条理を与えた(あの宗教ではそういうことになる、ならざるを得ない)神への異義申立てから仮初めの和解に至るドラマだ、とはっきり言ってしまってもいいと思うのだ。
そのために二重化されたオーケストラ(フル編成の典礼文と室内オーケストラによるオーデンの詩文)、配置まで含めて設計された声楽の扱い(特にも児童合唱の「天の声」としての超越性)、道具立てからも明々白々じゃないか。

と思うので。映像的な演出をすることに、それ程の困難はないような気がしているのです。カーニヴァル的な道具立ての目立つ「ジャンヌ」とかより、よっぽど求心的な舞台になるような気がします。ただし、先ほども書いたとおり、非常に簡素で観念的な舞台になる、蛇足と思われる可能性も高いものである、という弱点の方がまあ、大きいんですけどね(笑)。

とかなんとか、いろいろな角度からブリテンの「戦争レクイエム」についていろいろと考えてしまっているのさ、というお話でした。本来のお話はまた、近日ということで。ごきげんよう。

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