こんにちは。千葉です。
TPPについて自分が問題意識を持ったのがいつだったか、と昔のブログをちらっと検索したら2011年の1月でした。その頃から意識して情報を見てきたつもりだけれど、けっきょくはこういう理屈のない力押しで無謀な策に打って出るのは伝統なんですかねこの國。まあそういう話はいいや、ここで深入りはしません。
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「ニーベルングの指輪」について、昔っから引っかかっていたことがあるんです。いくつもの先行作、引かれた神話や伝説はあるけれど、ワーグナーの作品はあまりに独特な捻りが、酷く言うなら捩じれがあるなって。
何を隠そうその昔、今のようにはファンタジーものが読めたり見られなかった時代に青少年だった千葉は、ワーグナー作品をちゃんと聴くよりず~っと先の高校時代に先行作の一つで根本な部分で近い作品、「ニーベルンゲンの歌」(岩波文庫)を読了していたのです。どうよ(いや威張るほどじゃない)。そこで認識したお話と、ワーグナーのあらすじとは話が違う、違いすぎる。なぜか。
今も引っかかりがなくはないとは言えもちろん、少しずつ知識を増やすと北欧神話も参照されていること、何よりワーグナー自身の創作としての性格が強いことがわかる。ふむ。
それでもどうにも納得がいかない。重視しない登場人物に対して冷淡なワーグナーの台本※では、「歌」の後半で主役として活躍するクリームヒルトが、グートルーネという(申し訳ない言い方になるけど)端役に落とされているのはどうなのか。
「リング」はそもそもが「ジークフリートの死」という戯曲の執筆で始まっている以上、彼を失った妻の復讐譚は無用の長物です(もし彼女の復讐を戯曲として書くなら大長編になるし、それをオペラにしたら疑いようもなく「リング」がもう一作できるか、大胆にカットした「アイーダ」的な作品が作られねばならないでしょう)。でもクリームヒルトがちゃんとしたブリュンヒルデとの対決もなしに落胆のあまり固まったように動かなくなっちゃうその他大勢扱いだなんて。そう思ってしまうから、実は今でも「黄昏」を見るたび少し引っかかります。だから千葉は「台本を別人に書かせればワーグナー作品はもっとよかったのに」とか本気で申し上げてしまうのですが(非人間的なまでのリテイクになるでしょうけど。とは言いながら、ワーグナー氏豪腕な人ではありますけど、対等に反論されたらあるいは…とか思わなくもないんですよね(笑)。もちろん妄想ですけど)。
※「ラインの黄金」でいえばフローとドンナー、そしてフライアはちゃんとしたキャラクターとしてみなせる強度を持ち合わせていないでしょう(だから歌手、演出は大変だろうと思う)。見方によってはファーゾルトもかなり。「ワルキューレ」以降はそういう記号的なキャラクターが減るものだから、一転して「黄昏」でのグートルーネ、もしかするとグンターはかなり造形的弱さが際立ちます。人としての弱さだ、と取ってもいいけどそれなら相応の描写がなければいけないでしょう。
そう思っていた千葉には非常に助かる本、読みました。
出番はないけれど「ラインの黄金」に始まり、終幕では落命しているけれど「神々の黄昏」で終わるジークフリートの物語は、先行する神話、伝承、そしてその集大成を元に作られた戯曲などを先行作として、おそらくはある程度以上の知識を持ってその上で自分の作品としてまとめ上げたのが「ニーベルングの指輪」である、というのはどこの解説にも書いてあります。たぶん。そして先ほど触れたとおり、最初に書かれた台本が「ジークフリートの死」、つまり「神々の黄昏」の前身であったことも。
では、それらのワーグナーによって参照された伝説、神話伝承、それらによる作品はどのように成立して、どのような形で「リング」の中に活かされているのか?を、丹念にたどった研究を、一般向け書籍としてわかりやすくまとめてくれたのが本書です。学術文庫ですけど一般書です。
五、六世紀ごろに成立した伝説を源流とし、ドイツおよび北欧各地で語られる中で変容して「ニーベルンゲンの歌」が成立し、そしてそれらを元に韻文や戯曲が作られて、ワーグナーの作品に至る。細部を切り捨てて大ざっぱにまとめればこうなりますかしら。
「歌」と一口に言ったとき、私たちはきっと岩波文庫から出ている相良守峯による訳本を想定するところですが、あの形に至るまでの歴史がもう、長い!(笑)情報伝達が口伝によっていた時期からのものだから今我々が知る形に落ち着くまでに数世紀かかっていても当然なのですが。
また、口伝だからこそ様々に変異して別ヴァージョンもできているわけです(ちなみに本書の著者、石川栄作先生による別の写本による訳も今は出ているとのことです)。成立の過程において被った時代的変容などもここでは丹念に紹介されていきますし、それがどうワーグナー作品に反映されたかもわかるようになっています。本物の(おい)ハンス・ザックスによる作品や、ワーグナー自身がおそらくは読んだだろう戯曲についてまで、それはもうきっちりと。
そしてもうひとつのワーグナーに至る源流は、神話、伝承の集合である「エッダ」「サガ」です。こちらについても「歌謡エッダ」、そして「ヴォルスング・サガ」、「ティードレクス・サガ」がどのような作品であるか、ワーグナーはどこを使ったかをていねいに紹介してくれます。その上で、ワーグナーは割と自由に先行作を用いて「リング」を作ったのだな、と申し上げざるを得ない。取捨選択を自由にしなければ前述の通りクリームヒルトによる復讐譚を削れませんし、というと身も蓋もなくなりますが(笑)、設定のみを使ったり意味合いを逆にしてみたりと、まさに融通無碍です。
とは言いながら、そうした取捨選択は当然のことです、「リング」は「歌」や「エッダ」の再話ではないのだから。制作においてワーグナーがそうしたように、受容する私たちも積極的に読み、聴かなければならない、のかもしれない。きっと演奏家も演出家も積極的な読みをした上で上演をしているのだろうから。
などと、今年はすでにワーグナーの二作を経験した千葉は思う次第であります。この先近い時期に「ラインの黄金」、「ワルキューレ」が演奏・上演されるし、来年には後半二作の上演も控えています。いろいろと学んじゃうなら今がその機会だと思う次第ですよ。
ちなみに、著者の石川栄作先生自身による解題がリンク先で読めますので、そちらもご参照あれ。
では本日はひとまずこれにて、ごきげんよう。
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