2016年10月11日火曜日

書きました:新国立劇場『ワルキューレ』名唱の饗宴で初日開幕!【シリーズ『ワルキューレ』#6】

こんにちは。千葉です。

先日の台風、静岡あたりで弾かれて南側に抜けて消滅した、という不思議な進路を辿ったわけですが、今合衆国東南部を襲っているハリケーンも陸に当たって東に流されて、なかなか厳しい被害を出しそうなことになっている模様で。
こういう事象に対して、説明可能性だけで考えるなら、大ざっぱな”異常気象”よりは偏西風の流れる位置の変化を想定したほうがいいような、気がしますけれど、まあ素人がそれを考えてもどうにもなりませんなあ…

床屋政談ならぬ床屋気象予報はさておき、書いた記事のご紹介です。


すでに上演も半ばを過ぎて、初日以降も歌手の皆さんもオケの皆さんもハードな演目と全力で戦っていらっしゃることでしょう。千葉からは初日のレポートとして、舞台と作品の読みを主眼とした記事を出しております。
一言で言ってしまうと「この舞台、けっこう好きよ」ということになりますが、さすがにそれでは何も伝わらないな…とけっこう長文ですけれど、多くの舞台写真を差し込んでもらうことできっと「ヴァルキューレ」という作品と今回の舞台について、一読でそれなりにおわかりいただけるかと。

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記事には書かなかった部分を少々、というかけっこう長く書きます。記事に書いても問題ないないようなのですが、流石にあれ以上長い文を読んで下さい!とは申しにくいのです。

この舞台を見ていると、ワーグナーは「指環」という作品でもまだ女性による救済を希求していたのではないか?という気持ちになってきます。初期作品でそのモティーフはやりつくしたはず、と思っていたのですけれど。
この作品ではヴォータン、ジークムント、そしてフンディングとそれぞれに力のある男性が描かれます。ヴォータンは神々の長、ジークムントはその血を引く人間の英雄、そしてその敵であるフンディングにしてもグループのリーダーとして君臨する、強い男性と言えましょう。しかしながら、本作ではヴォータンは自らの力の根源である契約に縛られて求めるものは得られない。ジークムントは無双の英雄でありながら不遇としか言いようのない境遇に加えて最後の局面では父に裏切られる形で敗北する。フンディングは単独ではジークムントに立ち向かえずフリッカを頼って勝利を得るもその行為自体がヴォータンの逆鱗に触れるものとして落命する。こうしてみるとわかるのですが、誰も何もなし得ていない…
この舞台はその感を抑えるどころか、より強めて示します。ヴォータンはその感情に左右されやすいところを演技で強調する。ジークムントは迷いない存在として表される、まったくぶれない視線はその一本気を強く、しかし脆いものとして印象づけるかのようだ。対してフンディングは文中でも書いたのだけれど往年の西部劇でよく見たタイプの典型的な悪漢スタイルで見るからに勝てる要素が全くない(笑)、それに悪役に擬せられながら権威(フリッカ、婚姻を司る神)にすがろうという姑息さも好感を呼ばない。と、三人共に酷いことを言いましたが、実際この舞台では男性たちがダメなんです。

第一幕はそれでもまだいい方で(戦いはこれからだ!愛し合おうぜ!で終わりますからね)。第二幕には美しく着飾ったツィトコーワのフリッカの前にまともに反論もできないグリムスレイのヴォータンがなかなか哀しいし(彼は存在感あってかっこいいのに)。ちなみに、フリッカが艶やかに着飾っているのはこの大作の中では「ヴォータンとの間に子をなしていないこと」をことさらに強めたものであるようにも思われたし(この推測があたっているとすれば、エルダの描写はどうなるのだろうと心配になる)。そう、ヴォータンに注目してこの舞台を見ていくと、まさに神の没落、黄昏への一本道として捉えられるようにも思うわけですよ。

対してヴォータンを完膚なきまでに論破(笑)するフリッカ、苦難に満ちた生を生き延びることで我が子に未来を託すジークリンデ、そして本作の主役たるブリュンヒルデの生命力たるや。
フリッカは一般に損な役回りと見られがちだけれど、全能者たる神の放恣を押しとどめるこの作品では数少ないリミッター役(次作ではほとんどいませんからねリミッター)、こう存在感を示してくれると二幕の前半が引き締まります。台本通りではあるのだけれど「血の繋がらない娘」であるブリュンヒルデに対する邪険な扱いは一瞬「うわっ」と思いましたよ。ぶれないんですね、この舞台のフリッカは。
ジークリンデについてはこの作品中もっとも変化するキャラクターの一人です(最後に記事にならなかったオペラトークのレポートをつけますのでご参照いただきたいのです)。一幕ではまだ過酷な現在に囚われた存在として、二幕ではその過去に苛まれる存在として、三幕では絶望を超えて未来を志向する存在として、それぞれに印象的に現れるジークリンデは、幕ごとに歌い方も変えていたように思います。もし第一幕で「硬いかな?」と感じられた方には、「もしかして役柄としての表現が違うのかも」と私からは意見させていただきます~。

で、ブリュンヒルデについては本作の設定を確認しておきましょう、というのが私からの提案です。おそらくはティーンのお嬢さんの彼女はお父様のお気に入りとしてお姉さんぶっている。与えられた任務を疑わずに優秀にこなしてきた、そんな第二幕冒頭の彼女が変化していく姿が女性側のメインです。
この作品が終わった時点から見れば、彼女は神としての力を失いファイアウォール(おい)に守られて眠り続ける、という敗北エンドっぽい。でも”人間的”成長をもっともしてみせる存在でもあります、というか彼女が”条件闘争”を戦わなかったら、彼女はジークリンデの人生を繰り返すだけの存在に成り下がっていたはずです(しかもジークムントなしのそれだから、その生涯はより過酷なものになったことでしょう)。この作品での彼女は、よりマシな条件で生き延びることこそが、いわゆるトゥルーエンドだったのでしょう。とても喜べるものではないわけですが。

正直なことを書きます。多くの方が心動かされた第三幕の幕切れに至るヴォータンとブリュンヒルデの対話ですが、千葉には先程書いたとおり、ブリュンヒルデの”条件闘争”に見えてしまってなんともやりきれないものでした。彼女はこの作品では成長してなお「父のいい子」からは抜け出せない。「神々の黄昏」の最後、全曲の大詰めですべてを知ってようやく父の失敗ごと炎で消し去る、言いかえれば自分ごと世界を別の形に改める決断をする存在になるわけです。だからここには、”家庭の暴君に抵抗なく仕えてしまう優秀なお嬢さん”を見るような哀しさがあったように思うのです。それにあの別れの場面、過剰に思えるスキンシップは父娘の共依存的関係をも想像させるもの、もっと踏み込んでヴェルズングの兄妹に重ね合わせるように近親姦を想像させるものだった、のではないのか。お父さんいけないわ!(ヤケ気味)

で、ですね。このあたりの作品の持つリスキィな性格の見極めに、ゲッツ・フリードリヒの仕事の確かさを感じたんですね、千葉は。作品の全体を見据えて、今がどこなのか、登場人物たちがどこまで変わりうるのか、などなどを個別の作品の中に上手く落とし込むその仕事に。死体冒涜的な第三幕冒頭にしても「そもそも”ゾンビファイター”を大量に集めるヴォータンの姿勢がどうなのよ?」という糾弾に感じられたし、キャラクターの性格描写の端々に作品理解が示されていたように思います。
だからこの舞台、千葉はいわゆる読み替え演出だとは感じませんでした。もちろん「往年のオットー・シェンク時代のMETのようなものが台本通りだろ!」と言われたら、この舞台はそっちには入りませんけどね。でもちょっとした部分にしのばせた精神分析読み(第三幕でジークリンデが折れた剣を抱きしめて歌う場面はかなりストレートなそれでしょう)なども含めて、かなり作品からの読み取りが散りばめられたものであるように思います。この作品に限らずワーグナー、かなり長い対話の中でお話の根っこが動くような展開も多いですから、こういう仕込みを読みながら聴くのがいいんじゃないかなって思うんですよ。手数が多い演出で圧倒されるのもいいですけど、こういう削れる部分を削って作品の読み取りを率直に示してくる舞台と対話して見るのもいいと思うんですよね。

そういう気持ちを一言にすると、「千葉はこの舞台、けっこう好きですよ」ということになるわけであります。何よりこの舞台は後二作の上演が終わらないと”正しい”読みはできない状況です。だから今のうちに、作品との、舞台との対話をしながら最後の舞台の幕が下りるまで楽しむのがいいんじゃないかなって申し上げたいのです。まだこの大作は道半ば、単独でいろいろと判断するのも楽しいですけど、次は、その次はどうなるのかと考えつつ読みを試みるのが楽しいんじゃないかな、って思うのですね。記事にも書きましたが「ラインの黄金」は世界を布置した、そして「ヴァルキューレ」で企みが成功しない/生き物の自然として男性性は継続性を持たないことの悲哀の強調がなされた。では、女性キャストが二人しかいない「ジークフリート」はどうなるのか、すべてが精算される「神々の黄昏」はどういう読みに基づいた舞台になるのか。幸い「神々の黄昏」までは丸一年、じっくり考える時間はありますから、本を読んだり録音を聴いたりいろいろできるはずです。IMSLPからスコアをダウンロードすれば音楽については知れますしね!ばっちりだ!(何がですか?)

先々の話になるけれど「ジークフリート」は東京交響楽団、「神々の黄昏」は読売日本交響楽団と、飯守泰次郎マエストロの元違うオーケストラが演奏することも注目の新国立劇場の「指環」、資料センターも駆使して楽しむのがいいと思っておりますよ。レパートリーシステムの劇場ならさくさくと次が来るところですけど(ヴィーナーシュターツオーパーさまとか、すでにあるプロダクションで短期間にチクルスを上演してますからね)、スタジオーネシステムの劇場だからこその数年がかりのプロジェクト、じっくり楽しもうじゃないっすか。と、思っているわけです。時間はある、と思って千葉はこんな本を読み始めましたよ。



幸いなことにその昔、ファンタジー的な世界に憧れて「ニーベルンゲンの歌」を読んでいたおかげでよみやすい!助かった!(本気)…失礼いたしました。ワーグナーに関する本は多いし、「指環」のレコーディングも山のようにありますから、ぜひ自分が納得行く範囲で学習して立ち向かうことをオススメしますよ。
オススメしないのは、抜粋だけを繰り返し聴くことですかね…たとえば「騎行」だけをよく知っていて実演に接する「ヴァルキューレ」、けっこう辛いと思いますよ?上演時間が全四時間超えの作品のうち、濃く楽しめるのが10分に満たない部分だなんて(それすらも管弦楽版とは違うもの)、まったく鑑賞の助けにはなってくれないっす。いやほんと。千葉はだから抜粋コンピ盤とかダメなんすよねえ…

とか脱線できるのは、たぶん書きたいことを書き終わったからでしょう(笑)、この辺で記事のB面を終わるといたしましょう。これからでも行ける皆さん、ぜひ新国立劇場の舞台を見て、ご意見ご感想的に千葉が許せないときはご意見くださいませ、無駄話でもいたしましょう(笑)。では本日はこれにて、ごきげんよう。

2016年10月3日月曜日

ベルリオーズ大好き(個人の感想です)

こんにちは。千葉です。

前振り抜きで記事の紹介をまず。

◆2016年はゲーテの、「ファウスト」の年?

めちゃくちゃかんたんに書いてしまうならば「今年はほんとうに変わった年で、ゲーテによる音楽の大作がたくさん演奏されてるんですよ」という内容です。そしてそれは、この後に感想を書く公演の前フリでもありました。
が、コンサートの話の前に。この記事には本当に時間がかかったので(千葉ごときがゲーテについてまともに向き合ってしまったのが運の尽き、ですよ)、当初予定していたエンディングは公開版とは別のものなんです。その別バージョンふたつはこんな感じ。文体はもちろん、記事にしていたら違うものになったでしょう、ということで。

1)ここまで来たらどうか、どこかリストのファウスト交響曲を演奏してくれないか。ファウストとグレートヒェン、そしてメフィストフェレスの三人を軸にあの大作を音楽化した作品として類似しているし、同時代の相互に影響し合う仲の人々のアプローチだし。特にもメフィストフェレスの描写において明らかにベルリオーズの影響があるでしょ?そういう点から見て、もうちょっとベルリオーズは褒められてもいいと思うんだよね、”同時代、後世への影響”という観点からもう少しまともに評価してもいいと思うんっす。(とはいえ、この扱いの悪さは作曲家本人が自伝、回顧録で落ちぶれたエピソードを言い過ぎた弊害かもしれない)

2)今年は上演されないけれど、グノーの「ファウスト」の中でも印象的なアリアのひとつ、「金色の牡牛は」をブリュン・ターフェルが先日BSプレミアムで放送された欧州の夏のコンサートで歌いまくっていた。~から、記事で採用したハーディング&パリ管の話を入れて”海外でも「ファウスト」流行ってるのかな”的なオチに。宝石の歌よりイメージしやすいよね的な。

ま、どちらもブログならともかく(こうして書いてますからね)、記事としては使いにくいし、なにより先の話とは言えグノーの「ファウスト」が上演されることがきまった、ということの方が記事の方向にはあっていたでしょう。ということで、遠い未来を待たずに皆さまさっさと読みましょうね、「ファウスト」。長くて融通無碍な第二部に比べて「ファウストの刧罰」のもとになった第一部はむしろ読みやすいですから、お気軽にレッツチャレンジ。リンク先は青空文庫です。

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さて、そんなわけで東京交響楽団創立70周年記念演奏会の中でも、最も注目された公演の一つ、前の音楽監督ユベール・スダーンによるベルリオーズの劇的物語「ファウストの刧罰」を、25日にミューザ川崎シンフォニーホールで聴いた話をしましょう。

◆東京交響楽団 川崎定期演奏会第57回

2016年9月25日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ユベール・スダーン
合唱:東響コーラス、東京少年少女合唱隊
管弦楽:東京交響楽団

キャスト:

  ファウスト:マイケル・スパイアーズ
  メフィストフェレス:ミハイル・ペトレンコ
  ブランデル:北川辰彦
  マルグリート:ソフィー・コッシュ

”スダーンの時代があったから東響の今がある”という話は、記事でもここでも何度も書いています、もちろん濃淡ある扱いではありますが。スダーン&東響のモーツァルトを聴いて「きちんと転調が機能している!フレーズをきちんと区切っている!モーツァルトっていうか古典派はこれ大事!」と興奮したのは相当前のこと。響き、アーティキュレーションで「音楽をやるってこういうことだよね」と思わせてくれる日本のオーケストラ、という存在を知って、それ以来のファンなわけです。だってありがたいことじゃあないですか、近くに”音楽的に信用できるオーケストラ”がいてくれるんだから。聴きたい曲をコンサートに聴きに行けばいつでも大なり小なり満足して帰路につける、そんなオーケストラ。千葉の場合、”皆さまにもそういう存在ができますように”という思いも込めて国内オケを紹介させていただいているところ、割とあります。

で、先ほど紹介した記事の話でも書いたとおり、千葉はベルリオーズが大好きです。それも、有名すぎるし演奏されすぎている「幻想」よりも、「ロメオとジュリエット」とか「イタリアのハロルド」とか、なによりレクイエムとか。いいっすよ?って話をする機会が今回ようやく訪れた、とも思うので少し書きすぎた感があります(バランス的にね。書き足りないんですけどね)。記事の中で「ロメオ」を引き合いに出したのは、「協奏曲のはずだったのに、ヴィオラ独奏が終楽章で消えちゃう謎構成」の「ハロルド」よりは、「断章形式でありながら、もとの作品をある程度まで表現する」という点で「ファウスト」にかなり近いところにある、と考えるからです。「ロメオ」が離れ業すぎて、そしてこちらはオペラに近すぎてそういう見られ方をしてないんじゃないかな、と思いましたゆえ。
…誰ですか、「いやどっちの曲もよく知らないんで」なんて言ってるのは。もっと聴いてくださいベルリオーズ。面白いので。目指せ国内勢による「トロイ人」全曲舞台上演!(無理かな)

なお今回演奏されたこの作品、舞台上演する方々もいらっしゃいますけれど、基本的にオペラではない、と前々から思っています。オペラならもっと早くマルグリート出さなくちゃ。せめて第二場ではファウストと出会わないと。(ちなみに、この作品の改変を活かしてオペラとするならば。一幕でファウストとマルグリートが出会い、二幕でいちゃいちゃして三幕で原作でもイラッとくるファウストのウダウダぶりを描きフィナーレで地獄に落ちると構成する、って感じになり、ちょっと「ラ・ボエーム」っぽくなります。その辺の話はまた後ほど)

そんな作品を演奏したのが、楽譜にこだわり抜く高関健(東京シティフィルハーモニック管弦楽団)と、ジャン・フルネの影響を語るユベール・スダーンであったことの幸せたるや。いわゆる有名曲や、安心して身を任せられるスタイルの作品ではないのだから、演奏者への信頼なくして存分に味わうことができましょうや(反語)。今回は東京交響楽団の公演のみ聴いた千葉ですが、スコアを読み込む高関さんの演奏にはもっと触れなくてはと気が急く次第です(過去に群馬交響楽団で数回聴いていますけれど、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団さまとは未聴なのです)。反省。

さて、コンサートは昼公演、”あまり演奏されない曲なのに”なのか、”貴重な機会だから”なのかわからないけれどお客さんは多い、喜ばしい。いいことです、ほんと。ステージには16型のオーケストラ、その後方に独唱者の席が三つと少人数合唱席(後半まで使用しない、児童合唱の席でした)。そしてPブロックの中央部分と少々の両サイド部分に東響コーラスが陣取る格好。ベルリオーズのオーケストラは、後のワーグナーやマーラーと比べれば意外と普通の編成なのだけれど、この作品では二管編成から一人はみ出す四人のファゴットが特徴的(コンティヌオ的な仕事が多いから、他の木管の倍の人数がスコアに指定されているのです)。あと、クライマックスのためにテューバが二本になる第四部も、特殊といえば特殊ですね。でも古典派編成に低音管楽器の増強、そして多めの打楽器であの地獄落ちの音がするのか、などぼんやり考えるうち、演奏会は始まるのです。

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で、演奏を聴いてしみじみと感じたのは天晴ユベール・スダーン、であります。
ベルリオーズのオーケストレーションはこの曲でもいつものようにどこかおかしい、でもとても効果的です。ヴィオラとコールアングレに大きい役割を与えているのは”ダモーレ”の楽器だから、なのかな、などと考えたりもします(ベルリオーズは割と歴史的な楽器法を継承していますので、的外れではないかも)。ちなみにその独特さは、力で押さえつけるような演奏だと生きないように思います。いわゆる熱演、力演で大盛り上がりの幻想交響曲の演奏会はよくありますが(歴史的名盤も、そういうのが多いですね)、ベルリオーズの時代はベートーヴェンのすぐあと、ですからね。古典派的に形をきっちり作れる音楽家がやらないと、ベルリオーズの音楽はぐちゃぐちゃの、ただのヘンテコになる危険があります。ですが古典派に通暁するユベール・スダーンにそんなことがあるわけもなく、そして彼が鍛えた東京交響楽団が彼の指示に対応できないはずもなく。

千葉が事前に楽譜を流して読むだけでも流れを見失ってガクガクしてしまったレチタティーフと歌、そしてオーケストラの演奏の交錯も自然な流れで示されるのはさすがとしか言いようがない。”作品を知り尽くした”なんてのは批評のおきまりのタームだけれど、こういう演奏を前にしたら言って置かなければいけないことでもあるんすよ。彼のオペラは聴いたことがないけれど、機会があれば聴いてみたいです。そうですね「トロイ人」とかどうでしょう(しつこい)。ベルリオーズ・ジョーク抜きでは「フィデリオ」とか、すっごく高潔で品のある演奏になりそうに思いますが如何でしょう?

そしてこの演奏でやっと気がついたんだけど、スダーンの作る和声感はロングトーンの扱いに対する配慮が大きい、気がします。いわゆる管楽器の基本としてのロングトーンじゃなくて、長く音を保持することそのものに対する意識、と言い換えましょうか。旋律だけではなく、裏でさりげなく支える声部がいい仕事をしているから目の積んだ音楽になるし、転調で明瞭に”色”が変わるわけですよ、きっと。その響きに対する配慮、感覚に応えるうち今の東京交響楽団が作られたのだ、と言ってみてもいいかもしれない。お互いに聴きあうアンサンブル意識の高さ、取材させていただいたリハーサルの合間に団員のみなさんがコミュニケーションを取る姿からも感じておりましたが、これが根底に形作られたのが、スダーン時代だったのかな、などと思いました次第。
ここで、現監督とのキャラクタの違いを無理にでも言葉にするならば、前任者は形を作る、現監督は流れを作る、とでもなりましょうか。機会があれば検証してみたいのですが、果たして。二人がオーケストラにもたらすものはかなり性格の違う刺激なので、もうちょっとスダーンにも来てほしく思えました。来シーズンも一回の登場なのが実に惜しい。

千葉の場合、指揮者を褒めるということは、すなわちそれに応えたオーケストラを褒めていることでもあります。どちらかだけがいい/悪いということはありえない。この日の東京交響楽団の響きの、何よりも立体感を賞賛させていただきたいです。ミューザ川崎シンフォニーホールでこそ生きる、ちょっとしたバランスの変化などに伺える配慮が効果的でベルリオーズの天才を証明してくれていましたよ。素晴らしい。歌とハープだけの小編成から、合唱とトゥッティのオケによるパンデモニウムの圧倒的な轟音まで振幅も大きくて、これでこそベルリオーズの管弦楽ですよ。さすがです。

歌については褒める以外に言うことがなくて(笑)。”主役”を暗譜で、身振り付きの歌唱で熱演したスパイアーズ、初役ながら強い声に多彩な声色、ちょっとしたジェスチャーでトリックスターを最後まで演じきったペトレンコ、そして酔っぱらいチームの先陣を切った北川、もっと出番がほしくなったほどの存在感を示したコッシュ。お見事な独唱陣に加え、大編成の東響コーラス、小編成の東京少年少女合唱隊ともども堂々たる歌唱でドラマを描出しておりました。拍手。

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もう十分に長いんだけど、貴重な機会なので作品についてもいろいろと気がついたことを書いておきましょう。あまり展開せず、短めに……

●ベルリオーズはこの作品を、完全に恋愛悲劇で構成した

「ファウスト」の第一部は、悪魔との契約で若返っている基本設定がなければ「ラ・ボエーム」にもなりかねない、哀しい恋愛のお話です。で、この作品を通してみるとその性格をはっきりと打ち出しています。悪魔との契約は不明瞭のまま始まり、最後の最後、マルグリートを救うために契約するファウストは、原作のそれとは相当違う人です。
ここで現れるファウストはいわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレス。もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない、とすればすべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが少し気になる、ような気もしますね。原作ではお互いに万事を知り尽くした学者と悪魔の化かしあいの末にファウスト博士があのセリフを言うところに圧倒的なカタルシスがあるわけで、第一部がメインだとそうはできかねる、というのは理解できるのですが。
原作は、ある意味で博士&悪魔のバディもの、そして互いに出し抜こうと抜け目なく振る舞うコン・ゲームものの性格もあって、それ故に立体的な構成になっているわけだからこの改変は惜しいけど、さすがに尺の制約というものはあるわけですね。もしかすると「ファウストの刧罰」は、ゲーテが最初に著した原ファウストに近いものになっているのかもしれない。

●ファウスト博士のキャラ設定が微妙

既に書いた内容とも被りますが。「ファウストの劫罰」のファウストは若く、そしていわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレスです。彼らの契約はクライマックスの直前、マルグリートを救うための手立てを用意させるためのもの。不可能を可能にするための契約によっていわばいきなりに地面に穴が開いて地獄に落とされるかのような勢いのある展開です。これを可能にするために、もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない。そうなった結果、すべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが消えてしまうので、そうなるとマルグリートとの間で子をなしてしまう(その上で逃げる)のはちょっと若気の至りにすぎないかな…

●構成が少し見えたかも

冒頭で(ハンガリーで!)ファウストの独白に続いて聴こえる合唱が主の復活を喜ぶ合唱なのは、クライマックスの地獄落ちに対応している。ということは、もしかするともう少し照応させられるように作品を構成している可能性がある、ような気がする。これはただの思いつき。

●「劫罰」はこの時点の集大成

過去の作品でも印象に残るベルリオーズ音楽の特徴を随所で感じることができる。このメンバーで聴きたいです、レクイエムとか。

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ああ、また長くなってしまった。反省はしていませんが(おい)、今回の記事はここまで。ではまた。

2016年9月27日火曜日

読みました:岡田暁生「メロドラマ・オペラのヒロインたち」

こんにちは。千葉です。

さて簡単に読み終わった本のご紹介。

◆「メロドラマ・オペラのヒロインたち」 岡田暁生

「オペラの運命」「西洋音楽史」など、クラシック界では異例のベストセラーを放ってきた(中略)著者の最新作(リンク先より引用。そうだったのか)、なかなかよかったです。

”そもそもオペラはいわゆるクラシック音楽より芸能に近い”とする著者が、15のオペラと3の映画を、主にヒロインについての語りで作品を読み解く、月刊誌「本の窓」の連載記事をまとめたものです。作品を一覧で書き出せばこんな感じ。

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ 『ノルマ』
ジュゼッペ・ヴェルディ 『ラ・トラヴィアータ』
ジュゼッペ・ヴェルディ 『イル・トロヴァトーレ』
ジュゼッペ・ヴェルディ 『アイーダ』
リヒャルト・ワーグナー 『ニーベルングの指環』
リヒャルト・ワーグナー 『トリスタンとイゾルデ』
ジャック・オッフェンバッハ 『ホフマン物語』
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 『エフゲニー・オネーギン』
ヨハン・シュトラウス2世 喜歌劇『こうもり』
ジャコモ・プッチーニ 『トスカ』
ジャコモ・プッチーニ 『トゥーランドット』
W.A.モーツァルト 『コジ・ファン・トゥッテ』
リヒャルト・シュトラウス 『ばらの騎士』
リヒャルト・シュトラウス 『アラベラ』
エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンコルド 『死の都』
デヴィッド・リーン 『逢びき』
ヴィクター・フレミング 『風と共に去りぬ』
フランシス・F・コッポラ 『ゴッドファーザー』

19世紀の作品が多いのは本書のテーマであるメロドラマの定義からも自然なことですが、その点に引っかかられたあなたは本書を読むべきです。「どうして映画がオペラと並べて論じられているの?」と感じたあなたにも。
リンク先でも端折った説明は読めますが、第一話で詳しく定義の検討をしていますので時間のない方はまずそこだけでも立ち読みされてもいいかもです。

簡単に、と言ってしまった以上ここでやめますね(笑)、読んで損はしませんよ。ということで。ではまた。

2016年9月7日水曜日

ロレンツォ・ヴィオッティ見事なり

こんにちは。千葉です。

いろいろと他の作業や仕事の兼ね合いもあってベートーヴェンが聴きたい!それも”今の”やつを!という状態に陥り、1990年生まれの若いマエストロの演奏会に行ったんだ。まだ彼が指揮する公演があるので、これは早めに記事にしておきますね。

今回東京交響楽団に登場したロレンツォ・ヴィオッティは早逝した父の跡を継いだ、ということもないのだろうけれど若干26歳にしてポストに就任、各地でオペラを指揮している注目の指揮者、つい先日もヴェルビエ・フェスティヴァルに登場している。その動画はmediciで配信されていたので気になって観てみた。
で、その感想はといえば「自分がその年齢だった頃にどんなだったか、なんて考えたら首でもくくらないといけないレヴェルで堂々とした指揮者ぶり」というもの、さてでは実演は如何に?という、ちょっとしたお手並み拝見気分がなくはない。というか、今年の東京交響楽団ではそういう目利き気分が味わえる、有望な若手の登場が多かったっすね。(さりげなく来シーズンの話に誘導←と書くことで台なし)

◆東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第93回

2016年9月3日(土) 14時開演 東京オペラシティ コンサートホール

指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
管弦楽:東京交響楽団

曲目

ベートーヴェン:交響曲第四番 変ロ長調 Op.60
R.シュトラウス:「薔薇の騎士」組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス

東京交響楽団とは二回目の共演となったヴィオッティ。前回2014年はウルバンスキの代役として、すでにあったプログラムを見事に演奏してみせたけれど、今回は自身で編んだプログラムでの再登場。それはいうなれば”名刺代わり”のプログラムと見ていいのだろうから、通ぶって存分に値踏みをさせていただくのが、厭らしいけどある意味正しい態度でありましょうよ。逃げも隠れもしない、彼自信の渾身のプログラムでの登場、ということで(前回の代役についてはその対応力を褒めるべきものであり、”借り物のプログラム”だとけなしているわけではないことはいちおう為念)。

スイスに生まれウィーンとワイマールで学び、オペラにシンフォニーに活躍する若きイタリアとフランスの血を引くマエストロ、というキャリアをそのままに反映した選曲、とも言えるのかな※、などと思いつつ個人的なお目当ては最初に書いたとおりベートーヴェン。

※公演の後、東京交響楽団より以下のTweetでマエストロの意向が知れたわけである。なるほど、師匠譲りの入魂のプログラムだったのですね。千葉の読みとも矛盾はしないとは思いますが、実にいい話ですねこれ。



さて、お目当てのベートーヴェンは弦が12型、ティンパニがケトルドラムでトランペットはロータリーと、アーノンクール風から20世紀風までこなせてしまう東京交響楽団だからこそできる柔軟な対応ですね。だから思うわけです、彼の演奏についてもピリオド奏法どうこういうよりは、表現のスタイルとして「ヴィブラート控えめが基本、必要に応じて使ったり使わなかったり」がもはや現代スタンダードなのではないかしら?

さて演奏についてですが。第一楽章はすこし硬かった、ように思います。このホールだと時々ある「弦が壁になって管がうまく伸びてこない」時間帯もあったけれど、楽章の途中からはこの日の会場の響きにもなじんだか、実にいい響きが聴かれるように。「これはモーツァルトでもハイドンでもなく、ベートーヴェンですよ」と言わんばかりの低弦の存在感はいい目配りです、ヴィオッティ(偉そうに)。
その一楽章を高い解像度のいい響きで駆け抜けて第二楽章からは盤石、指揮者の意図も伝わったものと思う。フレーズの伸縮も自在、重心移動が巧みなので場面はことさらに力まなくても動いていくのが実に巧みで。
第三楽章のスケルツォ、速めのテンポで主部のアウフタクトを少し長めに取らせて音楽に引っかかりを作って単調な煽りだけの楽章にしない。テンポもそう落とさないけれど、トリオは角を落とした音楽の流れが美しいのなんの。そのままフィナーレにはアタッカで突入、その結果、あたかもこの交響曲がハイドンやモーツァルトのオペラに見られる「複数の場面が連続するフィナーレ」のように思えてくる。なにもアタッカで別々の場面が繋げられたから、という理由だけでそう感じたのではない、各声部が饒舌に語る演奏は恣意的なデフォルメなどなくとも十分に刺激的、劇的なものでした。お見事。

快速で駆け抜けるこの交響曲には、ついちょっとカルロス・クライバーがどうのこうのと言いたくなってしまう業ある世代の千葉だけど、彼のベートーヴェンについて古楽云々あまり言わなくていいのと同じ、もうことさらにそう言い立てる必要もないと思う。もちろん、カルロスの指揮に魅了されて指揮者になった元ウィーン・フィルの人たちについては、一言あってもいいかも、ですけど(笑)。
ということで、凝縮された古典派オペラのようにも感じられた刺激的なベートーヴェンに満足したわけです。なにより第四番、なかなか聴けないからね!

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後半はまず作曲者編曲による「薔薇の騎士」組曲。編成は16型でティンパニも当然モダン楽器、そして大量の打楽器。オペラの場合、打楽器が大量に必要でその上兼ね役も難しいから6人もいましたぜ(笑)。弦の人数が減るにせよ、ピットにどうやって入れているものかといつも思いますねオペラの編成がステージに載せられると。
で、演奏ですが、いやあ、雄弁ですよ劇的ですよ。先日のフォルクスオーパーの舞台を経て、「もしかしてこのオペラはオペレッタをそのままに”描写”した作品ではないか」とか余計なことを考えていたし、「この組曲はなんていうかちょっとただの接続曲で愉しみ難いよね」とか感じたりもする、この組曲に文句の多い千葉ですが、この日の演奏は存分に愉しみました。振り向きざまに始めた冒頭のホルンから、最後のワルツの狂騒まで。若いけど勢い任せにしない、でもクレヴァー過ぎて大人しくなっちゃうこともない。全幕を意識して指揮しているのがよくわかる場面描写に感心しました。ベートーヴェンではより構成、形式を示したヴィオッティだけれど、ここでは繊細な感情表現も実に見事で。素晴らしい若者じゃないか彼は!(洋画っぽい言い方)

…いやとても良かったし楽しんだけど、正直なところ「後生だから全曲聴かせてくれよ」ですよ。ほんと、全曲やってくださいヴィオッティ&東響で、新国で。

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ここまでで、短い時間ながらコンサートが終わってしまいそうな盛り上がりを見せたけれど、最後にはまだラ・ヴァルスが待っているのです。楽しいオペレッタの描写から一転、”失われたウィンナ・ワルツの幻想”でコンサートは終わるわけですね。曲間で捌けるメンバーが少なくて(E♭クラとチェレスタだけじゃないかな)、今さらながら20世紀初頭のフランス音楽のぜいたく感に驚きますが、まあそれがWWI前のベル・エポックなんだよね、とかなんとか。

東京交響楽団のきっちり感、ラヴェルに合うよねって前から個人的には思っていまして。その昔、スダーン時代に聴いた「ダフニスとクロエ」第二組曲がなかなかよかったように記憶しているのだけれど、いつの公演だったかな…(こういうど忘れ&探しだせずを回避するためにものを書いているところ、自分にはあります)
そしてヴィオッティも若いのに(若いから、かな)、きっちりと書かれてある音符を有機的に音にしていくからもう楽しいのなんの。楽しすぎて「俺は過去にこの曲ライヴで聴いたことあったかな…」と何度も思うほどに新鮮な音の連続でしたわよ。バレエ音楽として構想されながらしかし明確なストーリーではなくイメージで、それも「ウィンナワルツのカリカチュア」として書かれているこの作品を、不明瞭な混沌から過剰な高揚へ、そして崩壊へときっちり導いてくれたのは見事すぎる。最後の不協和音で終わるところも拍手でマスクされないというお客さまの協力もあって、奇跡的な(笑)コンサートはおしまい。特にも最後の五音、さすがにお客さんがこの曲を知らないってことはなさそうだけど、あたかも空中から巨大な物体が落下するさまをスローモーションで見ているかのようで息を呑んだ方も多かったのではないかなと。

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ということでですね、いや良いコンサートでございましたよ。1990年生まれの若きマエストロ、そりゃあ話題にもなるし各地のオーケストラが声をかけまくることでしょうよ。名前が示すとおり血筋としてはイタリア系なのかもしれないけれど、その音楽はお国柄どうこうではなくかなり現在の潮流を正しく咀嚼したもので、その軽やかさと目配りの良さは将来に期待するしかないものです。
2014年の初登場、そして今回の次はまだわからないけれど(とりあえず翌シーズンは登場しません→しつこく誘導する千葉である)、きっとまた東京交響楽団に来てくれるはず。っていうか来てくださいね。いえ伏してお願いします(卑屈)。その時はそうねえ、二つくらいのプログラムでマーラーも入ってると嬉しいなあ(妄想)。

それはさておき、最近東響にいい若手が来るとオケのファンの皆さんが一斉に「今すぐ首席客演指揮者にしてつなぎとめるんだ!」と言い出すのがなかなか楽しいのですが、こればっかりはスケジュールですからねえ…ダニエル君もよかったしロレンツォ君も見事だった。これからも継続的に来てくれる、そしてお互いにプラスになりうるいい指揮者と契約できたらいいよね、って東響の一ファンとしての千葉は思う次第でありました。

なお、ロレンツォ・ヴィオッティは9日には大阪交響楽団に客演します(フィルではないっす要注意っす)。長富彩とのリスト、そしてメインがプロコフィエフの第五番!聴きたい!行けない千葉の代わりに関西エリアの皆さん、ぜひお聴きになってガンガンレポートしてくださいね、想像してニヤニヤしますんで(笑)。

2016年8月5日金曜日

ポポフとショスタコーヴィチの続き

こんにちは。千葉です。

さて、先日の続きを書いてしまいましょう。そうでないと日本初演の感想も書けませんし。最近の千葉は意外と上坂すみれ嬢が気に入っているようだ、というボケ含みの内容になりそうです(笑)。

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(承前)

ガブリイル・ポポフの交響曲を東京交響楽団が日本初演するめぐり合わせには、また別の感慨がある。創立70周年を迎えたこのオーケストラは、かつて上田仁時代に数多くのショスタコーヴィチ、プロコフィエフ作品の日本初演を行ってきたことでも知られている。そんな東京交響楽団がポポフの封印された交響曲を日本で最初に世に示すのは、ある意味”正しい”成り行きと言えるだろう。
もちろん指揮者は上田仁ではなく飯森範親だし、往時のメンバーが居るわけでもない。しかし当時から今に至るも東京交響楽団の進取の気性は今も健在なのだ、そう感じられることが喜ばしい。シュトラウスの交響詩が「メンゲルベルクと彼の優れたコンセルトヘボウ管弦楽団に」捧げられていることが既に歴史のいちページであるように、こうした出来事、めぐりあいの蓄積がオーケストラの歴史を作る。そして我々音楽ファンもまた、歴史の証人として経験を積むわけである。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

そしてポポフの友人にして今年生誕110年の、そして没後41年のドミトリー・ショスタコーヴィチの命日(8月9日)にはプラウダ批判からの名誉回復を賭けて作曲した交響曲第五番が、絶賛開催中のフェスタサマーミューザKAWASAKI2016にて、昭和音楽大学管弦楽団によって演奏される。真偽定かならぬ逸話として「ピアニッシモで静かに終わっていてもこんなに評価されたかな」と作曲者がうそぶいたという「革命」の愛称で知られるこの作品は、果たして”ベートーヴェン的古典にも通じる作品”なのか、それとも第四番と本質的に変わらない、ショスタコーヴィチらしい交響曲なのか。音楽はすべてを語っているはずだ、だからまずはその音に耳を澄ませようではないか。

かつて同じ道を歩んだ二人が道を違えざるを得なかった、まさにその時期を象徴する二作が続けざまに演奏されるこの夏は、ひときわソヴィエト音楽が熱い。

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終わった公演のための記事として構想していたものだから、ここでは膨らませるのはやめました。ご容赦のほど。

ショスタコーヴィチの交響曲を読むために必要なキーワードは、引用やプロット、標題も大事なのですが、「公/私」という視点が求められるのだ、という話を最近どこかで読みました(どこだったかな…)。
交響曲は公のもの、だから当局に批判もされるし場合によっては潰される。対して室内楽や声楽曲はそこまでの縛りがなく、たとえばショスタコーヴィチなら弦楽四重奏曲や歌曲でそうとう攻撃的な姿勢を示している。何も「ラヨーク」まで引き合いに出さずとも、彼の室内楽や歌曲は危ない橋をわたっていることは少なくともショスタコーヴィチが好きな方はご存知でしょう。知らなかったとは言ってほしくない(追悼モード)。

その視点で考えれば、交響曲第五番は革命20周年を記念する、国家の歴史に刻まれるべき社会が認める傑作、ということにまずはなった。その後、真偽怪しいことで有名な「ショスタコーヴィチの証言」で「すべての交響曲は墓標である」とされてその認識で解釈・受容されて。
しかしこの作品、第一楽章における「カルメン」の引用などからショスタコーヴィチの私的領域のドラマを盛り込まれた作品でもある、ということがわかってきています。第一〇番が自らの署名であるDSCH音型(D-Es-C-H)からそういった意味合いがあることは知られていましたが、第五番もそういう性格を併せ持っていました、というさらなる展開が待っていようとは、「革命」とLPレコードのジャケットに大書した往時の制作サイドはどう思われることやら(冗談です)。

ショスタコーヴィチはプラウダ批判に抗うように即座に交響曲第四番、第五番を書いた、しかもそこには多重底の仕掛けがあった。ポポフは交響曲第一番の演奏禁止から立ち直って次の交響曲を書くまで10年近い時間が必要だった、しかも完成した第二番は映画音楽による当局が喜ぶ作品だった。この分かれた道の残酷さに何を思うか。そんな暑苦しい夏もまた一興ですよみなさん!(いつもの調子に戻った)

ちなみにですね、ポポフの交響曲第一番(昨日からポポーフ表記がメジャーになりそうな勢いですが)ですが、今月末にはオーケストラ・ダヴァーイがアマチュア日本初演します(もしかすると企画そのものはこっちが先だったかも、くらいの微妙なタイミング。昨日の会場にたくさんいらしていたようです、曲をよく知っているお客さんが多いったらない)。飯森範親&東響の演奏を聴いておかわりされたい方も、聴き逃して残念極まりないと思われる方も如何でしょう。メインはDSCH音型が乱舞する第一〇番ですよ。

さらに紹介しそこねたのでここにサクッと書きますが、PMFオーケストラの東京公演が異常に長いプログラムのメインでショスタコーヴィチの交響曲第八番を演奏するんですよね、行けないけど。

とか、これからも久しぶりにショスタコーヴィチの話ができるはずだ、ですよ。まずは体調を戻していろいろ仕込もうと思う次第ですよ。では本日はひとまずこれで。ごきげんよう。

2016年8月3日水曜日

今、この時に鳴り響く問題作

こんにちは。千葉です。

え~、酷い夏バテです。久しぶりに関東の夏を全身で逃げようもなく経験して、あっさりと負けています。盛夏はこれからというのに、千葉は生き延びることができるか。この調子では刻の涙を見て木星に行って終わってしまうのではないか(なぜガンダムしばり)。

そんな具合であるがゆえ、とある記事が完成できず寄稿できませんでした。いろいろすみません。

でもほとんどできているので(というか、実は記事二本分の内容であるような気がする)、こちらにお出しします。明日日本初演、ガブリイル・ポポフの交響曲第一番の話です。指揮は飯森範親、オーケストラは東京交響楽団です。詳しくはリンク先で。以下本文。

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ガブリイル・ポポフ(1904-1972)が数年をかけて完成した作品、交響曲第一番(1934)がついに飯森範親の指揮の元、東京交響楽団によって日本初演される。と紹介すると「80年も前に作られた、もはや”現代音楽”とも言えない昔の作品なのに、なぜ今ごろになって日本初演なのか」と疑問に感じられるだろうか。だがそう問われれば「この作品はそれだけの”問題作”なのだ」と答える他ない。

少し歴史の話をしよう。第一次ロシア革命(1905)前後から、革命と並走するように勃興した「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる一連の芸術運動があった。イタリアの未来派とも共通する過去の伝統と隔絶する思潮を持ちながらも、ロシアでは革命との”協働”によってその成果は独特なものとなり、一目見れば忘れようもないほどのインパクトを残すポスターなどは現在でも模倣やパロディとして取り上げられ、目に見えて影響を与えている。美術、文学、建築など幾つものジャンルにおける芸術運動の流れの中に、もちろん音楽もあった。アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)から、1930年代のドミトリー・ショスタコーヴィチやガブリイル・ポポフの若き日々に至る、短いとは言えない期間にロシア・ソヴィエト独自の新しい音楽が作られている。例を挙げるなら短い作品だがアレクサンドル・モソロフの「鉄工場」(1926)が示す感情を排した描写によるストレートな未来主義、技術礼賛は音楽におけるひとつの典型といえるだろう。


(このポスターはアレクサンドル・ロトチェンコの有名な作品(1924)だが、数多くのパロディでご存じの方も多いことだろう。余談だが、筆者はこのポスターをデザイン化したTシャツを持っている。着ている時に人に見られるような気がする事が多いので「さすがロトチェンコ、人目を引きやがる」などと思っていたけれど、もしかして人々はフランツ・フェルディナンドのジャケットだと思って見ているのではないだろうか。まさか「たのしいプロパガンダ」ではあるまいな。さて。)

そんな挑戦的な試みの時代を終わらせたのが1930年代のスターリンによる大粛清であり、こと音楽はショスタコーヴィチを名指した「プラウダ批判」(1936年)でとどめを刺される。若き天才がその才能を存分に発揮したオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は新作ながら大ヒットする。各地のオペラハウスがこぞって取り上げるロングランとなったばかりに問題作がスターリンの目に留まることになるのだから皮肉なものだ。この作品を名指しして「音楽ではなく荒唐無稽」と批判され、作曲中の交響曲第四番は完成にこぎつけるも初演を公演直前に撤回、その後25年放置されることになる。

そしてショスタコーヴィチ生涯の友人、ポポフの交響曲第一番はそのわずか2年前に作曲されて、当局から演奏を禁止されていた、ある意味先駆的な問題作なのだ。いや、演奏禁止自体はほどなく解除されるのだが、当局に目をつけられていたショスタコーヴィチのお気に入りの作品で、なにより一度は当局が正式に否定した作品に手を出す者もなく、冷戦の終わりを目前にした1989年にゲンナジー・プロヴァトロフの指揮、モスクワ国立交響楽団によって世界初録音が行われて、ようやく”封印”は解かれることになる。2004年にはレオン・ボッツスタイン指揮ロンドン交響楽団によるレコーディングによってその真価が広く世界に知られた、”あの”ショスタコーヴィチの第四番に先行した問題作がついに日本でも演奏されるわけである。

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ガブリイル・ポポフ(1904-1976)はショスタコーヴィチより2年年長で3年ほど先に亡くなっている、まったくの同時代人で生涯の同僚、友人だった。六つの交響曲(第七番は未完)他、多様なジャンルで多くの作品を残したポポフだが、上記の事情もあって交響曲第一番の前後で大きく作風が変わっている。ヒンデミットやシェーンベルクなどのモダンな作品に大きく影響されて奔放な活躍をしていた初期の作風は否定されたため、当局が求める社会主義リアリズムへと大きく創作の傾向を変えたのだ。せめて、第一番に続いて構想されていたという”第二”の交響曲※が作られていれば、これほど忘れられることもなかっただろうけれど、当時のソヴィエト社会が求める作品を作るようになったポポフは後世の評価としては残念ながら「ソヴィエトの凡百の作曲家のひとり」として生涯を終えている。

※実際に書かれた第二番(1943)は映画音楽を元にした作品で、第一番とは似たところのない穏当な、古典的ですらある曲調となっている

それでも彼の名を音楽史に残し、彼自身の転機となった交響曲第一番は、四管編成に大量の打楽器を用いた大オーケストラのための意欲的な作品だ。三楽章の交響曲であることも含め、直接にショスタコーヴィチの交響曲第四番の先駆的作品といえる。フレクサトーン特有の音型を管弦楽が模したようなフレーズや、大編成の管弦楽の咆哮、そして見逃せないフィナーレにおけるスクリャービンの濃厚な影響など、一度聴いたら忘れようもない強い印象を残す交響曲を作曲していたこの時、あきらかにポポフはショスタコーヴィチに負けない才能だった。そのことは今度の日本初演で多くの音楽ファンが認識することだろう。

生涯の友人同士が触発し合った作品だというだけではなく、ポポフの交響曲第一番とショスタコーヴィチの交響曲第四番には共通点がある。この二つの作品は、当時ナチスを避けてソヴィエトに亡命していた指揮者、フリッツ・シュティードリーにより演奏されているのだ(もっとも、ショスタコーヴィチの作品は上記のとおり最終リハーサルの後に”初演”は中止され、1961年にようやくキリル・コンドラシンによって初演されるのだが)。

ウィーンでグスタフ・マーラーに見出されてドイツ各地の歌劇場で活躍、後年メトロポリタン歌劇場と残した録音が知られるマエストロは、1934年からレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めている。ショスタコーヴィチの交響曲第四番の初演撤回について、長らく”シュティードリーがこの複雑な作品をこなせなかった””乗り気でなかった”などと批判されてきたものだが、既にショスタコーヴィチを刺激したポポフ作品を初演し、後年にはシェーンベルクの室内交響曲第二番を初演した彼が「マーラー的な作品を理解できなかった」というのはさすがに失礼ではないか?と筆者は長年感じている。むしろポポフの交響曲第一番をめぐるトラブルを経験していた彼が、才能ある作曲家が当局に挑みかかるような作品を創りあげてしまったことを誰よりも理解したがゆえに、演奏後のトラブルを心配して初演の中止を進言した、とは考えられないだろうか?…もちろんこれは想像でしかない、「正解」は歴史の闇の中なのだけれど。

政府が名指しでショスタコーヴィチを責め、交響曲第四番を作曲しながら初演しなかったその翌年である1937年にシュティードリーはソヴィエトを離れ、彼が担っていたレニングラード・フィルの常任指揮者後任には当時まだ30代前半の若きエフゲニー・ムラヴィンスキーが着任、ショスタコーヴィチの交響曲第五番を初演して長きに渡る指揮者と作曲家の交流が始まる。ポポフの交響曲第一番はそんな時代の音楽だ。長く封印されたその音楽は、80年の時を超えてようやく日本でも鳴り響く。(本文終わり)

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これにですね、もう一つか二つのショスタコーヴィチのコンサートを組合せた記事にすることを考えていたんですが、ちょっとその構想の時点で夏バテだったようです。自覚症状がないって怖いですわ。
その続きはそう長くないもののはずなので、あとでちょろっと書きますね。ではまた。

※追記:続き、ちょっとだけ書きました。はじめからB面寄りのテイストですみません(笑)


2016年8月1日月曜日

きっと往年のあれはこういう ~東京フィルハーモニー交響楽団 第883回オーチャード定期演奏会

こんにちは。千葉です。

夏バテからのリハビリで、編集機能を発揮せず書きます。…ぼかさずにはっきり書くと「思いつくこと思い出せること全部、ダラダラと長く書きます」です、すみません(笑)。

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さて伺いましたコンサート、おそらくこの日受け取った感触は9月の公演紹介で参照しそうには思いますが、単独の記事に残すべき価値ある公演でしたのでここに。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第883回オーチャード定期演奏会

2016年7月24日(日) 15:00開演 開場:Bunkamuraオーチャードホール

プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』(演奏会形式・字幕付)

指揮:チョン・ミョンフン

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

キャスト:

蝶々夫人(ソプラノ):ヴィットリア・イェオ
ピンカートン(テノール):ヴィンチェンツォ・コスタンツォ
シャープレス(バリトン):甲斐栄次郎
スズキ(メゾ・ソプラノ):山下牧子
ゴロー(テノール):糸賀修平
ボンゾ(バリトン):志村文彦
ヤマドリ(バリトン):小林由樹
ケイト(メゾ・ゾプラノ):谷原めぐみ

チョン・ミョンフンをオペラ指揮者として認識しながら(かつてバスティーユ・オペラとしてパリ・オペラ座が大々的にプロモーションされたころに彼を知った、そういう世代なのです)、なかなかその実演に触れる機会がなく。ついに得られたこの機会は演奏会形式ながら期待しかない公演は、前々日のサントリーホール公演が早々に完売し、こちらのオーチャードホール公演も当日までには完売しておりました。さもありなん。

新国立劇場の舞台に多く触れ、かつアンドレア・バッティストーニのリハーサル&コンサートを取材する中で「なるほど東京フィルはイタリア・オペラを得意とする、オペラハウスのオーケストラのような性格が強いのか」と感じられてきたので※、このめぐり合わせ自体は大歓迎ですし、千葉は「蝶々夫人」を名作と断じる者でありますので、この演奏会は大いに楽しみにしていました。予習として、IMSLPからスコアをダウンロードして、お気に入りのロス・アンヘレスの盤を聴き直して(この盤、何がいいってユッシ・ビョルリンクのピンカートンが「バカだけど悪いやつには思えない」真摯な歌唱なので何を歌ってもいちいち怒らなくて済むのがいい←酷い評価基準ですが、ピンカートンだけは何かに障るものがある系男子なので許してください)。スコアを見ると、割と何の変哲もないイタリア・オペラのスコアっぽいのにあの音がするあたりがプッチーニの技なのでしょう、とは思うがまだ踏み込んで書くほどの認識ではないので機会があればまた(後日きっと、必要に駆られて「ラ・ボエーム」のスコアも眺めなければならないでしょうから)。

※もちろん、個人的な感触なので誤っている可能性はあります。あえて言うならば「東京フィルと同様に多くその演奏を取材して、同じく新国立劇場のピットでも活躍する東京交響楽団との比較において」とより正確を期した注釈をしてもいいかなと思います。首都圏のオーケストラ、それぞれの個性を紹介できるよう精進しますよ。

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そんなわけでそれなりに準備万端で伺いましたよオーチャードホール。渋谷駅の雑踏が恐ろしいので神泉駅で降りて一路Bunkamuraへ(駅前のうるささは、たまに行くとあの環境を許した人の正気を疑う水準です。その喧しさをアトラクションと感じているのか、欧亜問わず多くの外国人観光客がいたのはなんというか。あと、お嬢さん方のメイクの雰囲気が比較的よく行く新宿とは違うのかな、とか思ったりして、渋谷も変わったものだとか訳知り顔をしてみたくなり申した)。

久しぶりのオーチャードホールの舞台には、前方に幾つかの椅子と平台があり、そしてふだんはピットにいて見えないプッチーニのオーケストラがみっしりと居並び、その後ろに合唱席が用意されていて、これが既に見ものなのです。特に打楽器。弦楽器の編成が大きめなのはピットのサイズからくる制約がないからこそ、でしょうけれど、プッチーニはワーグナーに影響を受けた世代の作曲家なのよねえ、と開演前からしみじみと思うのです。そう、流麗なメロディに心動かされるドラマはもちろん魅力だけれど、それに加えてオーケストレーションの巧みさがね。舞台にオーケストラが乗った状態であればストレートにその響きが客席に届くわけで、プッチーニの技を存分に楽しむのに不足はない。というところまで書いて、ようやくコンサートは始まります!みんなー、着いてきてるかなー?(

念願かなって聴くことができたチョン・ミョンフンの音は、冒頭からしばらくその精度の高さ、音楽の流れの良さに感心しながらもちょっとだけ「あれ?」と感じた部分がありました。冒頭からしばし、音楽自体は淡々と進むんですよこれが。ことさらにゴローを変な人にしないし、アメリカ人二人も落ちついて会話しているようなトーンに収まっていまして。そして肝心の東京フィルの落ちついた音色はこれまで聴いたことのない、クリアなのにどこか影のある感じの独特の感触、通常のオペラ上演ほど多くのリハーサルはできていないだろうにここまで音を変えてしまうのか、オケは変わってしまうのか……などと考えながら聴いていた、その気分が変わるのに時間は要りませんでした。蝶々さんご一行が現れる、その瞬間に舞台が彩りを得たその瞬間の美しさときたら。もう。
そう、男たちはこの瞬間まで植民地相手丸出しのお取引をあたりまえの、つまらないこととして淡々と進めていた、それがいざお相手の登場となった瞬間に文字どおりに色めき立ったのだ。その情景が音だけで美しく示され、その瞬間に聴き手に伝わる。なるほど、これがいまやスカラ座でヴェルディを任せられる指揮者の仕事か!と目が醒めるような思いをいたしましたよええもう強かに。

そして登場した蝶々さん、ヴィットリオ・イェオは鮮やかな和装もお似合いで、歌っていなくてもつい見てしまうほどの存在感。それ故に、このセミステージ形式がまるで舞台上演であるのかのように感じられてくるのはこの作品が圧倒的にヒロインにかかる比重の大きい作品だから、ということはもちろんあるのだけれど、それでも彼女の存在感は素晴らしい。
ちょっと先走ることになるけれど、スズキ役の山下牧子も小間使いの和装で蝶々さんとともに活躍するから、二人の場面はもう完全にオペラ上演ですよ。第二幕とかもうどうしろっていうのよ(泣)。そんなわけで、存分に「蝶々夫人」を堪能したことでした。

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もういい加減長いのだけれど、最後にちょっと余談を。

地方にいた千葉青年はバーンスタインの没後それなりにクラシックの人になりまして(それまではCDをよく聴く方の吹奏楽の、テューバの人でした)。クラシックの雑誌なんかも読むようになれば「東京にどんなオケが来ているか」とか「話題のオケ公演はどんなものか」とか、そういう知識は得られるようになります。
ちなみに年に何回か上京して都度コンサートに行くようになるのは20世紀も終わろうか、という頃のこと。その頃にはまず「マーラーの交響曲が演奏されること」を条件にコンサートを選んでいたから、オペラは選択肢にならず。仙台に来たブルノのオペラが上演した、演出に何の特徴もないいわゆる巡業用のプロダクションで「ドン・ジョヴァンニ」を聴いたのもその頃のことだけれど、それで「東京でオペラ見よう!」とは考えませんでしたねえ…そんな遠くから望見していた時期の事なれば、「リング」を引っ越し公演で上演していようが「炎の天使」のヤバい上演とか、それこそ新国立劇場の開場も遠い話でしかなく。

である以上、当時の常任指揮者、若き大野和士の元でなかなか舞台では上演できない数々のオペラ作品をコンサート形式で演奏した東京フィルハーモニー交響楽団の往年の名企画「オペラ・コンチェルタンテ」も知識として知るのみでした。この日、舞台前方の平台ほかを活かしたちょっとした演技(いや、蝶々さんは完全に演技もされていましたね)、そして照明だけの簡素ながら作品の魅力がよく伝わる演出でプッチーニの音楽をそのままに伝えてくるような演奏を聴いていたら、ちょっとだけ「十数年後に経験できるから酸っぱい葡萄とか思うなよ」とかつての自分に教えてあげたくなりました(笑)。

ではまた、ごきげんよう。