こんにちは。千葉です。
なんでしょう、お花見に最適なのは今日、でしたかしら。ようやく防寒具を持たずに夜まで外出していても大丈夫、かな?なんとも長い冬でした…
先日の大阪市音楽団(またなにか書くかも)の件もそうですが、いろいろと冬の厳しさを思わせるものがあってけっこう本気で困ります。けっこう、とかつけてしまうのは程度の多寡の話だけではなくて、自分一人ではどうしようもないところがあるから、なんですね。それこそ大阪市民でない以上、言えない部分というのはどうしてもあるように。今日のお題はですね。昨晩第二回目の放送を終えた「ららら♪クラシック」の話です。
放送局の方針がそうであるのなら、30年の歴史ある番組が消えることに抗議はできても、その決定を覆すことなど期待できようはずもない。それでも黙っていられなかったので先日自分なりの意見を事実上の最終回を見たあとで書きました(本当の最終回は、最良の意味で打ち上げでしたから(笑)特に追記する要素がありません)。千葉は一愛好家として最近のコンサートに触れる機会の消失を悲しむのと同じくらい、元近い業界にいたものとしてあのオーケストラが番組の終了によってこの先被るだろう苦難が想像されますので、なんとも…
残念だが終わってしまった以上仕方がない、失ったものに代わるだけの新しい別の何かが、新たに示されたものに見いだせるかを確認するとしよう。
そんな思いは昨日でなくなりました。さようなら、「ららら♪クラシック」。
あのう、「日曜の夜、ホッとしたいあなたへ ビギナーから通まで楽しんで いただけるクラシック音楽番組」を作るために、どうして旧来の俗説を振りかざしちゃうんですか?モーツァルト関係の研究って、あの時代の作曲家の中では相当に深く行われていて以前の「神話」とは異なるモーツァルト像もコンスタンツェ像も示されてるじゃありませんか。どうして番組全体の印象として、旧来の説を「活かす」ようにしちゃうんですか?ちょっと普通ではそういう手法、ありえないんですけど。
ジャンルを変えて考えてみてください、例えば歴史。「歴史秘話ヒストリア」で「~は○×ではなかった?」として再現ドラマ等によるVTRを流し、しかしそのコーナーの結論は「○×でした」なんてケース、見たことありますか?例えば動物。「ダーウィンが来た!」で「従来△■は群れを作らずに生活すると言われてきましたが~」で始まったVTR、新たに撮影できた群れで暮らすその動物の実像込の映像の最後に「ですが群れない△■もいるかもしれません」なんて〆ることって、ありますか?
しつこくなるのでこれ以上は例を挙げませんが、昨日の番組はそういう、少なくとも千葉はこれまでに見たことがない検証スタイルを示してくれました。いわゆる天才神話について、ゲストの言葉を引き出しつつ、それでも司会者が思い入れを語って〆る、というちょっと想像できない形で。石田衣良氏がご自身の著作で書かれるのならお好きにどうぞ、で済むところだけれど(千葉はまず読まないし)、公共の電波で、しかもかつては「教育」テレビだった所でやっていいうやりかたですか、これ。新たな知見を紹介すると見せて旧来の俗説を強めたらイカんでしょ?何を考えているんですかスタッフは(石田氏はそういう人だとあきらめました)。
クラシック音楽への「敷居」を下げたい、という意図自体は善意から出ているのでしょう、でも言いたくはないのだけれど、敷居下げるために事実関係や認識、知見を間違ったものにするのは最低の、下策ではないんですかい?例えば「アマデウス」をフィクションとして楽しむのはいいでしょう、でもあれを元にモーツァルトについて詳しく慣れると考えるのはいくらなんでも無茶だ。それに負けない無茶を、第二回にしてこの番組はしてしまっている。そんなもので入門させられる方が可哀想だ、まず間違った知識を身につけてそこから勉強して解除していかなければならないなんて。
教育だと押し付けがましさがあるし堅苦しいから、視聴者の側で知らないことが多いだろうからとレクチャーならぬトークを増やそうという意図はわかります、繰り返しますが善意からのものなんでしょう。でもそれで事実関係さえ怪しく思えるような話を放送時間約一時間のうち半分以上も流すの、どう考えてもおかしいでしょう?音楽は細切れの楽章単位で(これは前番組からの問題点)、語られるトークは出演者の感情的な話がメイン、それって知らない人向けじゃなくて「少し知っている人」対象なのを前提にしてますよ?
モーツァルトが書き間違いなく作曲をしたとか、コンスタンツェが悪妻の代表だとか、そんな古臭くてシンプルなお話を垂れ流しても音楽ではアリ、なんでしょうか。自然科学番組はそういうことはありませんよね?美術番組でそういうルーズな話をしますか?スポーツ番組で「貴方にとってその競技とは?」とか、司会者が思い込みだけで話していたら困るでしょう?繰り返しますけど、敷居を下げるためならアリ、なんですか?
あああもう、この話は結論が自分の中では出てしまっているので否応なくロンド形式(変奏曲ですらない)でお送りすることになってしまいます(笑)。
テレビがクラシック音楽への敷居を下げたいと思うのなら、わかりやすくてその分だけ怪しげになりがちなお話に頼るんじゃなくて、ちゃんとした情報と演奏そのものに触れる機会を作ってくれればいいんですよ、それも録画に頼るような時間ではないところで。視聴習慣というものについてはテレビ局の皆さんのほうがよっぽどご存知でしょう、某番組があの内容で一定の人気を博し続けているのはまさに、継続して放送しているから、だと思いますよ?
BSの放送を自分から探して録画する人たちはとっくに「敷居」なるものは超えてるんですから、もし本来の意図通りにしようと思うならちゃんとリアルタイムで見てもらえる時間に、それなりの時間と内容のある番組を見てもらうしかないですって。それも、単発ではなく定期的に、忘れられない程度の間隔で。
どうして話題を絞り込んで作品と謎解きドラマを強引に(笑)組合わせて視聴者を楽しませてくれた「名曲探偵アマデウス」を作った局が、少なくないクラシック音楽映像ソフトのエンドロールで制作協力をしていることがわかるほどクラシック業界に貢献している放送局が、こんなあたり前のことをしようとしないのかが理解できません。誰ともわからない初心者がわかりにくいかもしれないから、それだと不評かもしれないからと糖衣にくるんで不正確かもしれない情報を流したり、長くて集中して聴くのは難しいだろうからと先回りして配慮して細切れの演奏を放送する。そんなことで得られるのは、有料のサンプラーみたいなCDで満足できる人、CMで聴いたサワリを聞きたい人、クラシック音楽をBGMにしたい人、癒されたい人などなど、簡単に予想できるような人たちですって。そういう人たちにはちゃんと今挙げたような、そういう商品が手元に届いてますから、わざわざ新規参入される必要、ないと思いますよ、公共放送さま。
ああもう、モーツァルトがお題の番組でもこれだけ怒れてしまうのだもの、大好きなマーラーとかショスタコーヴィチがあの調子で放送された日には卒倒するのではないかしらワタクシ。その暁にはダイイング・メッセージにDSCHとサインしてやります、犯人はこの番組ですからね!と遺言を認めたところで(おーい)ひとまずおしまい。そして最後にもう一度、さようなら「ららら♪クラシック」。
まだこの番組を見続けられる予定の皆さま、もし面白い番組に成長した日には、ぜひコメントかTwitterで教えて下さいね、無節操に掌返しますので(笑)。
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