今年はあまり本を読めなかったし、映画も見られなかった。「この世界の片隅に」でさえまだ見られていないし(まさか出身地での公開より遅くなっても見られぬとは)、意外なほどの好評を博している「ローグ・ワン」がいつ見られるかもわからないと来た。哀しい、貧乏が憎い。
本気の呪詛はさておいて、読み終わった本の話。
意欲的な本を何冊も著されているお若い方(ジジ臭い物言い)という印象が日に日に強まる辻田真佐憲氏の、できたら最近作を読みたかったのだけれどまずはこちらから。
自分は出身が蝦夷の地だから(というのは半分冗談だけれど)、大和朝廷の歴史や伝統を声高に言われてもピンとこない。自分のものとは思えないのでそれを誇れ大切にしろ、と言われても困る、っていうか明治以降で大きく国は変わってるけどどこを指してどこまでのスパンで語られる伝統なの?
…とか、気になりませんかそうですか。でも千葉は気になりましたし、今も気になる。特にも、本書が取り上げる「君が代」の話です。ある時期までは別に法で決まっていたわけでもないし、音楽の教科書の最終ページに載ってはいても授業で歌ったこともない。吹奏楽で吹くようになってようやくまともに認識した程度で、それでも”得賞歌とポジション的に変わらない”ようなぼんやりとしたものでしたよ。
その後教育テレビのエンディングテーマ曲だったことを知り、それでもまだピンとこない。もしかするとロサンゼルス・オリンピックで認識したんじゃないかなあ、あのときはソヴィエト、東欧勢がいなくて体操でメダルラッシュだったし(音楽的めばえのひとつに、あの大会の開会式があるような気が、ジョン・ウィリアムズ音楽の映画を見ているとときどきします。…いつも気になるんですけど、ホルストやワーグナーよりもヒンデミットっぽい部分が多いと思いませんかジョン・ウィリアムズ音楽とくに「E.T.」とか←話逸れすぎ)。
その後長じていく中で、先の戦争の経緯もあって国旗国歌にはいろいろな意見があることを知る、そして最初に書いたような違和感を感じる自分としてはなんとも、法整備と言われてもなんともなって思っているうちに新世紀を前に法が制定されて、いろいろありつつ今に至る、と。最近ですね、なんとか会議の初期の大成果があれだったと知ったのは。物事には歴史があるし、出来事の裏には企図した者がいる。ふむふむ。そうそう、「振り返れば奴がいる」が三谷幸喜の脚本だと知ったのはもっと最近ですね(それは関係ない)。
で、本書を読んでいろいろと明確になりました。やっぱりあれなんですよ、政治によって強調される「伝統」って、たいがいが明治までしか遡れない。いや、「遡らない」、でしょうかね。明治の時点で作られた国家観がそのまま「伝統」にすり替えられている、と言い換えてもいい。しかしそれは破綻に終わっているのだから、無条件に肯定するのはどうなのか、っていうか明るい面の話だけじゃなくて問題のある面も語ろうぜ廃仏毀釈とかさ、など言いたくなる気持ちはあるけれど、そのためには事実関係を整理しないとね。
と、考える千葉にはこういう本が本当にありがたい。詞はかなり以前まで遡れる「君が代」だけれど、かなりふわっとした成り行きで明治期に林廣守の音楽になって、戦争の時期に幾つかの作品とともにアレヤコレヤと使われて、結果戦後は忌避されてきた、でもバブル崩壊のころから国旗国歌法の制定を求める人達が活躍しはじめてどうのこうの。ちゃんと書けよ!と気になる方には「本を読んでね!」とお返ししましょう(笑)。明治の明るい側面のひとつとしての「我等如何にして近代國家と為りしか」の一面がわかる本ともいえましょう、試行錯誤の中で体裁を整えて国らしくなったプロセスは楽しめる、かな。
個人的には、最近日本人作曲家の再評価の流れが大戦時の作品にまで拡がっていく雰囲気に懸念を覚えています。明治の国家観は最終的に敗戦という形で否定されて終わっているのに、そこに無前提的に戻ろうという発想がどうにも理解できない。文字通り正確に「同じ轍を踏む」つもりだと言っているようなものですからね、これ。具体的な作曲家や作品名は挙げませんけれど、無邪気に「名曲だ」「感動的」とか言って受容してる場合じゃないです、ほんと。もしその作品に関わる可能性が出てきた時に、どうしたものかは今から考えておかないと…
最終的に自分の話にオチてしまうようではイカンな、と少し反省しつつもこの本の話はこれでおしまい、近いうちに「たのしいプロパガンダ」「大本営発表」と読んでおこうと思いました、辻田真佐憲氏の本。ということで、ごきげんよう。
自分は出身が蝦夷の地だから(というのは半分冗談だけれど)、大和朝廷の歴史や伝統を声高に言われてもピンとこない。自分のものとは思えないのでそれを誇れ大切にしろ、と言われても困る、っていうか明治以降で大きく国は変わってるけどどこを指してどこまでのスパンで語られる伝統なの?
…とか、気になりませんかそうですか。でも千葉は気になりましたし、今も気になる。特にも、本書が取り上げる「君が代」の話です。ある時期までは別に法で決まっていたわけでもないし、音楽の教科書の最終ページに載ってはいても授業で歌ったこともない。吹奏楽で吹くようになってようやくまともに認識した程度で、それでも”得賞歌とポジション的に変わらない”ようなぼんやりとしたものでしたよ。
その後教育テレビのエンディングテーマ曲だったことを知り、それでもまだピンとこない。もしかするとロサンゼルス・オリンピックで認識したんじゃないかなあ、あのときはソヴィエト、東欧勢がいなくて体操でメダルラッシュだったし(音楽的めばえのひとつに、あの大会の開会式があるような気が、ジョン・ウィリアムズ音楽の映画を見ているとときどきします。…いつも気になるんですけど、ホルストやワーグナーよりもヒンデミットっぽい部分が多いと思いませんかジョン・ウィリアムズ音楽とくに「E.T.」とか←話逸れすぎ)。
その後長じていく中で、先の戦争の経緯もあって国旗国歌にはいろいろな意見があることを知る、そして最初に書いたような違和感を感じる自分としてはなんとも、法整備と言われてもなんともなって思っているうちに新世紀を前に法が制定されて、いろいろありつつ今に至る、と。最近ですね、なんとか会議の初期の大成果があれだったと知ったのは。物事には歴史があるし、出来事の裏には企図した者がいる。ふむふむ。そうそう、「振り返れば奴がいる」が三谷幸喜の脚本だと知ったのはもっと最近ですね(それは関係ない)。
で、本書を読んでいろいろと明確になりました。やっぱりあれなんですよ、政治によって強調される「伝統」って、たいがいが明治までしか遡れない。いや、「遡らない」、でしょうかね。明治の時点で作られた国家観がそのまま「伝統」にすり替えられている、と言い換えてもいい。しかしそれは破綻に終わっているのだから、無条件に肯定するのはどうなのか、っていうか明るい面の話だけじゃなくて問題のある面も語ろうぜ廃仏毀釈とかさ、など言いたくなる気持ちはあるけれど、そのためには事実関係を整理しないとね。
と、考える千葉にはこういう本が本当にありがたい。詞はかなり以前まで遡れる「君が代」だけれど、かなりふわっとした成り行きで明治期に林廣守の音楽になって、戦争の時期に幾つかの作品とともにアレヤコレヤと使われて、結果戦後は忌避されてきた、でもバブル崩壊のころから国旗国歌法の制定を求める人達が活躍しはじめてどうのこうの。ちゃんと書けよ!と気になる方には「本を読んでね!」とお返ししましょう(笑)。明治の明るい側面のひとつとしての「我等如何にして近代國家と為りしか」の一面がわかる本ともいえましょう、試行錯誤の中で体裁を整えて国らしくなったプロセスは楽しめる、かな。
個人的には、最近日本人作曲家の再評価の流れが大戦時の作品にまで拡がっていく雰囲気に懸念を覚えています。明治の国家観は最終的に敗戦という形で否定されて終わっているのに、そこに無前提的に戻ろうという発想がどうにも理解できない。文字通り正確に「同じ轍を踏む」つもりだと言っているようなものですからね、これ。具体的な作曲家や作品名は挙げませんけれど、無邪気に「名曲だ」「感動的」とか言って受容してる場合じゃないです、ほんと。もしその作品に関わる可能性が出てきた時に、どうしたものかは今から考えておかないと…
最終的に自分の話にオチてしまうようではイカンな、と少し反省しつつもこの本の話はこれでおしまい、近いうちに「たのしいプロパガンダ」「大本営発表」と読んでおこうと思いました、辻田真佐憲氏の本。ということで、ごきげんよう。
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