2017年3月26日日曜日

聴きました:第6回 音楽大学フェスティバル・オーケストラ演奏会(川崎)

こんにちは。千葉です。
伺ってきた演奏会のレポート、スピード優先でこちらに書くことにします。

●第6回 音楽大学フェスティバル・オーケストラ演奏会(川崎)

2017年3月25日(土) 15:00開演

指揮:高関健
管弦楽:音楽大学フェスティバル・オーケストラ(首都圏9音楽大学+九州2音楽大学選抜オーケストラ)
【参加音楽大学】上野学園大学、国立音楽大学、昭和音楽大学、洗足学園音楽大学、東京音楽大学、東京藝術大学、東邦音楽大学、桐朋学園大学、武蔵野音楽大学平成音楽大学(熊本)、大分県立芸術文化短期大学(大分)

ドビュッシー:交響詩「海」
マーラー:交響曲第六番 イ短調

さてこの日の演奏会、開演前に高関健さんによるプレトークが行われました。さて何をお話くださるかと着席して待つ間にプログラムを拝見すれば、前島良雄さんの解説が素晴らしいんですよ。A4版見開き2ページのうち、1ページ強をマーラーに割く配分はもしかすると賛否が分かれるかもしれませんが、”定説”に問題が多いマーラーの第六番である以上、仕方のないことなんです。ドビュッシーとマーラーの関係についても言及された良い解説に感心しているうち、時間が来て高関さん登場、トークが始まります。
が、高関先生曰く「話そうと考えていたことがプログラムに載っておりまして(笑)」とのことでしたが、指揮者マーラーの活動、ドビュッシーとの関係(アルマの話に触れてくれたのは個人的にヒットでした)、今回使用する楽譜について(スコアとパート譜の関係はなかなか興味深いものでした)、などなど存分に語ってくださいました。その熱弁が”若者たちが冷えた舞台に出なくていいように”という配慮だったようにも思われて、なんとも嬉しくなるプレトークでありました。

続いて登場する若き音楽家を目指す学生たち、18型の大編成は広いミューザのステージでもいっぱいいっぱいです。

<参考>

管楽器のスペースにこそ空間があるものの、舞台前方っをギリギリまで使ってやっと収まっているミューザの舞台は新鮮。より多くの学生に機会を、という配慮もあるのでしょうけれど、チェロを四パートに分ける場所もある「海」で大きめの編成は理のあることなのです。
はじめのうちはさすがに硬さも感じられたオーケストラも、明晰この上ない高関さんの指揮に落ちついたか、有名な「11時15分」ころにはよく鳴るし流れも落ちつきました。一度トゥッティで音を出せると雰囲気がつかめる、という面はあったかもしれません。ドビュッシーのスコア、”アシストなしでダンサーにトリッキィなポーズを要求する”振付のようなところがありますからね…(その昔趣味の吹奏楽で地獄を見た記憶がフラッシュバック)。そうそう、チェロパートのソリはお見事でした。
しかしよりトリッキィでソリスティックな第2楽章からは安定した音楽になり、各人のソロも綺麗に決まります。終楽章は冒頭から登場する特徴的なバスの音形も攻めた表現になって、フィナーレは大人数のオーケストラが率直に力を解放して華やかに終わります。

後半は長大なマーラー。さらに管楽器が充実し大量の打楽器が用いられる作品でステージはほんとうに埋まります。

<参考>



本当に、お疲れ様でした、とまず申し上げたい熱演でした。第一楽章が終わったところでコンサートマスターを始め、何人もの奏者が汗を拭っていた姿は印象的でした。それほどの集中を要求する、高関さんがプレトークの中で「自分が学生だった頃には演奏できなかっただろう」と評した堂々80分強の難曲を、小傷はあったとしてもやってのけた皆さんに拍手です。
上手舞台裏にカウベル、下手舞台裏に鐘を配して俗・聖の対比を空間的に示したこの演奏は、通称の「悲劇的」とは関係なく「一つの悲劇のドラマ」として成立していたと思います。ハンマーが下手側で振り降ろされるのは、その意味合いを強めるためでしょう。叩きのめされるのは俗の側であって、憧れられた超越の向こう側ではない、のですね。
演奏については第一楽章提示部のリピート部分、そして四楽章の前半がこの演奏の中でもいいところだったかと思います。

…この演奏がこの一週間のリハーサルの成果で、ベストの演奏ができたのだろう、と感じた上で少しだけ、数はそれなりに聴いてきたおじさんくさいことも書いておきます。
おそらく、演奏後に先生方が若い皆さんに指導されたのはとても基本的なことだったのではないかと推察します。それはなにも「直前に大きく変えるような指示はしない」ということではなく、「基本的なところで聴かせることができると、それだけ演奏効果も高くなる」という基本を外さないように、ということではないかな、と。
もっとお互いを聴けでも待つな、音の立ち上がりに注意して、音程に注意して……などなど、すっごく普通のことの積み重ねこそが、皆さんの演奏をさらにいいものとして聴き手に届けるためのひとつのポイントです。そしてその基本は踏まえた上で、二日目の演奏も、今回の演奏会以降も臆せず積極的な、聴き手に届く演奏をしていただければと思います。会場が変わって、短い時間でお互いの音を聴くことから二日目の演奏を作り上げる中で、きっとまた多くのことを学ばれるのでしょう。各位の健闘に期待します。
…こういうことを申し上げれば「そこなアマチュア風情が」という気持ちも湧くことだろうとは思いますけれど、「皆さんが演奏を人前でされるということは誰かに届き、その誰かがそれぞれにいろいろなことを感じた、ということなのです」と、バーンスタインに倣って禅問答のようなことを申し上げて煙に巻くといたします。

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さて、最後に高関さんの指揮について書きます。久しぶりに拝見したその指揮は、若者たちを確実に導くというミッションあってのこともあってか、迷いようもないほどに明晰なもの。かくあれ、というヴィジョンが明確に示されるその指揮ぶりはドビュッシーでもマーラーでも徹底されていて、その指揮あればこそのこの日の演奏でした。
ドビュッシーで特に印象的だったのはそのテンポ設定(とその指示)の鮮やかさです。第二楽章の緩急、第三楽章の起伏はこの音楽をより大きいものにしてくれたと感じます。
マーラーではその明晰さがより活きていました。なにより、この長い作品で今自分がどこにいるのか、どこに向かうのか、迷わせることがないのは本当にありがたいことなのです、演奏する若者たちにとっても、私たち聴衆にとっても。両端楽章での造形感の強い指揮からは、モティーフをより明確に、フレーズの方向をはっきりと描こうという意志が伝わりました。もうちょっとソリッドに響きがまとまればより多くの情報が伝わるはず、そんな隔靴掻痒が残ったことは少々残念ですが、それは次の機会を待ちたいと思います。

なお、マーラーの作品で大量に用いられる打楽器については、この日も随所で新鮮な発見がありました(たとえば第一楽章のトライアングル、あそこまで書き分けられていたのかと驚かされました)。「バスドラムとシンバルの組合せ」や、「ティンパニとバスドラムの使い分け」など、第六番にはハンマーやシンバル以外にも打楽器の聴きどころ、たくさんあるんですよ。今日聴かれる方はそのあたりも意識してみてください、旋律や構成以外にも仕掛けが本当に多いですからね、マーラー作品。

一週間のリハーサルの成果が、本日の東京芸術劇場の公演でより見事に花開きますよう、ミューザ川崎シンフォニーホールからお祈り申し上げます。

ではこれにて、ごきげんよう。

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